シン・ゴジラ 評判

 

この映画により庵野秀明は完全に日本映画のトップ位置を確立した。そういう所感だ。小僧、小僧とばかりに思っていたら、いつの間にやら大家、大御所である。

 

いずれにしろ、ヒットするということ、収益で黒字を出すという事は、作家性だの独自性、個性などよりも、オリジナリティよりも、または歴史に残る名作であることよりも、どんな野望、野心よりも、ずっとずっとずっーーと重要である。

 

100年後に再発掘される、というパターンも捨てがたいが、やはり生きてなんぼ、生きている間にその時代の第一人者になる人は稀有である。

 

思えばドストエフスキーも食うために作品を書いた。もちろん、正宗白鳥みたいな感慨を口にすると、小林秀雄との論争が始まるのである。

 

死後に名声がはっきりしているとか、この作品こそがその時代の空気を最も色濃く表現している、という発見など、未来から振り返れば容易い。しかし、だからと言って、例え過去を振り返ったとしても、その時代から逃れられるものではない。

 

民主主義には民主主義の呪縛がある。我々が、奴隷制度の美しさを謳歌したり、幼女を侍らす楽しさを評価する事が出来ないのと同様に、過去には過去の、未来には未来の価値がある。

 

もちろん、言論の自由には、そういう所も含めて、可能性を捨てない、全てを認める強さがあって、そのただ一点を以って、最も長く生きながらえる価値観だろうと考えられる。

 

庵野秀明は監督として大成した、もう気軽に会えるような人じゃない、見たことも会ったこともないけれど。こういう感慨はこのヒットによって裏付けられた。アニメでもヒット、実写でもヒット。いずれも面白い。誰の文句がつけようか。

 

そこにメッセージ性がある。正確にはメッセージ性があるように見える。実際の所、エヴァンゲリオンとは何であるか。それについて誰も明確な回答を得ていない。作者も含めて。当然ながら彼は作品を作る度にそれを削り出すように見いだそうとする。

 

まだそれを探している途中だから、観客もそれを希求する。作家でも止めることが出来ない。それがあると言った以上、見つかるまで掘り続けるしかないのである。

 

オオカミを見たと言う以上、誰もあきらめはしない。それが嘘と分かるまでは。

 

名監督とはその時代を狐付きにする人だ。狐が落ちてしまえば、あっと言う間に忘却されるかも知れない。ある時代に大流行した作品を今では誰も覚えていないのは珍しくないのである。

 

幾世代の時代がありました。それを超えて行ける力があるかどうか。その分岐点がどこにあるか誰も知らない。忘却されても再発見されることもある。そのまま忘れ去られる事もある。兎に角、そこに何かがあると思わせる事が大切なのだ。その予感は面白さを凌駕する。

 

そしてエヴァンゲリオンには誰もが納得できる答えなどない。解はない。それでは誰も納得できないから、答えのない答え探しを続けるという矛盾が、エバンゲリオンの源泉であろう。

 

解がない。逆に言えばどういう解でも成立する、または、しているように見せられる。これがあるから、作品は解釈の数だけ幾らでも生み出せる。あらゆる解は不正解だから。不正解ならば次の解を探す旅を続けられるではないか。

 

エヴァンゲリオンは既に庵野秀明の解釈でさえ正解とは言えない。それさえも解釈の一つに過ぎない。既に原作者の手を離れた所がある。だから、別の人が同等の作品を発表すれば、それが新しい解として受け入れられるだろう。

 

悲しむは、未だに庵野秀明以上の作品を誰も生み出せていない事だろう。もしそのような作品が生まれれば、誰も庵野秀明の解を見せろとは言わなくなる。幾つもある解釈のどれが好きか、という決着に収束する。

 

既にエヴァンゲリオン庵野秀明だけの物語ではない。だから彼がすべきは作品を終わらせることではなく、その世界観を次の人に託す、その意思を示すことではないか。作品がもっと続く事、それが多世界という概念の一つに過ぎない事を示す。

 

思えば、この世界には、これでは納得できないから早く次を見せろという作品は数限りなくある。その最初がヤマトだったと思う。プロデューサーの金銭的切実さと作品の力が見事に合わさった。そのお陰で観客に呆れられるまで作られた。これもひとつの終わらせ方だ。

 

ガンダムは多くの作家に時間軸を開放する事によって幾つものストーリーを生みだした。スピンオフという魅力によって世界が拡散した。そのひとつひとつがガンダムという世界の模索である。どこまでをガンダムと呼べるのか。それを試す歴史でもあった。ファーストからターンAの世界観までもが同じガンダムという世界で統一できるのは何故か、この思索はもっとされてもいいと思える。

 

エヴァンゲリオンは多世界の作品である、異なったエンディングが用意されているのに誰も文句を言わない。それはまるでゲーム的世界観でもある。

 

何を選択したら、どういう世界になるか。それは誰にも分からない。ある状況で違った選択をしたら違うエンディングになる。制作した年度が異なれば違う作品になる。それは作家の日常に強く影響されているはずだ。

 

まぁ、ゴォジッラである。宮崎駿の丁稚だとばかり思っていた庵野秀明が大監督になった。巨匠である。アニメではなく、日本映画全体の、である。なんだか大きく見えてきた。遠くに行ってしまうんだなぁ。

 

まるで東郷平八郎のようだよ。