NGT48も松本人志も救う? “地獄見た”指原莉乃の神がかった対応力

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指原莉乃という人を見ていると、現場の叩き上げ感がとても高い。だから、この人を見ていると、どうしても、船場吉兆の女将さんを思い出す。

 

日本特有の現場の叩き上げというのは、もちろん、日本の長所であり欠点にもなる。日本陸軍の強さは、叩き上げの現場の力にあって、兵士は一流、将校は三流というのが極めて妥当な評価であって、そのような現場力でアメリカと戦い抜いたのである。

 

近代という工業技術は、人間の力を大きく凌駕したため、その戦闘は悲惨を極めたが、その顛末は、現場の力では決して跳ね返せない壁があることを当時の日本人に、メンタリティの奥底にまで叩き込んだ。

 

この経験が、戦後の復興の原動力になったのは間違いなく、工業力、特にエンジンやシステムに対する敗北感に対して、生き残った人々は敏感すぎるほどに先鋭化された感性を持っていた。それは数世代に渡ってよく受け継がれたが、その後の社会変化も伴い、この国から消えさった。

 

そういう根拠を失った世代が取るのは二つの道しかない。現場で叩き上げた自分の力を信じるか、そうでなければ、無知蒙昧なまでに日本の伝説や伝統という空虚なものへ依存する。

 

指原莉乃という人がその立ち回りや瞬発力からして現場で鍛えられた叩き上げの人であることは間違いない。自分に降りかかった災難をチャンスとしてきた人である。その危機回避能力に人々は惹かれた。AKBに人々が求める本質はひとつである。あれだけの集団の中から頭ひとつ抜きんでた生存戦略とはどういうものか。

 

彼女の頭の良さ、回転力、瞬発力、それを可能とするのは日頃からの鍛錬であろう。スポーツ選手と同じで、普段練習していないものは、咄嗟の場では出せない。しかも、咄嗟の場合、練習通りにするだけではお話しにならない。何かがアレンジされている。そのアレンジ力が咄嗟の力だ。

 

 

そんな彼女の咄嗟力に見えるものも、改めて分析すれば戦略性が極めて高く、そして、それを巧みに隠す所が彼女の力量である。隠しているからこその力なのである。戦略性の高さこそが彼女の最終兵器である。

 

その彼女が「誰がトップなのか、誰が仕切っているのか、私ですらわからない」「名前も出ず、顔も出ず、誰が書いているかもわからないコメントを中途半端に出して。」というとき、そこに彼女の高い戦略性が見えてくる。AKBがどのような集団であれ、総大将は一人しかいない。そんなのは日本中の誰もが知っている。

 

日本芸能でも稀有な名作を生み出してきた一人である。その秋元康に反抗できる人間がひとりもいない組織がある。ならば、だれに責任があろうがそんなの構わない。その背景に何があろうが、彼に真実を炙り出せないはずがない。

 

すると彼女が最も守るべきは、AKBという集団、その背後にいる秋元康であって、その権威を失墜させるわけにはいかない。これが彼女の行動原理となる。

 

その絶対正義の前では、企業のコンプライアンスであろうが、この国の法律であろうが、たとえ刑事事件の被害者となる人であろうが、それを重視する理由が彼女にはない。ここに叩き上げの叩き上げである彼女の面目躍如がある。

 

彼女は法律だってくそくらえと思っているはずである。AKBの前ではそれ以外の芸能事務所だろうがテレビ局だろうが、圧倒的な力を持っているとはいえ、敵対することさえ厭わない。彼女の本質は、世界を敵に回しても、私はここで戦う、というものだからである。

 

結局、彼女を追い込むのは、法令違反であろし、彼女の世界の外、ローマでいう所の蛮族たちしかいないのである。いつかはそれで彼女も叩かれる日がくるだろう。未成年者の雇用に対して、いきなり辞めるなど許されないとか、どこかの奴隷商人みたいなことを平気で口にする彼女である。この辺りに意識があるはずがない。

 

彼女の強みは叩き上げである。故に、それが彼女の弱点である。

 

多民族、多様社会の中で、ブラックフェイスの中にさえ様々な意見と対立が生まれる国がアメリカである。アメリカの歴史の中で、ポリティカルコレクトネスは、恐らく多様な意見を封じ込める方向に向かっている。

 

アメリカはこれまでの「正しさ」とこれからの「正しさ」の前で、その余りの違いに立ちすくんでいるように見える。これを乗り越えるために、これが、今のアメリカを支えている危機そのものの正体であろう。

 

時代の変遷に敏感に対応する人もいれば、無自覚のままの人もいる。社会から乖離しても何も気づかない人もいる。時代遅れ、と言われる事が常に悪いわけではない。自ら進んで鈍感である人もいるだろう。

 

だが、無自覚ほど滑稽なことはない。分かっていても敢えてやる。そうでなければ人々の支持は得られない。そうでなければ裸の王様であると、フアン・マヌエルの時代からよく知られた寓意である。願わくば叩き上げの人が裸の王様になる姿は見たくないものである。

 

いまだ松本人志を面白いと思っている彼女の感性を評価する気にはなれない。