伊方原発、運転容認=差し止め仮処分取り消し-巨大噴火「頻度小さい」・広島高裁

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広島高裁(三木昌之裁判長)の判断基準

  • 現在の知見で巨大噴火の前兆を捉えることはできない。
  • 事前予測を前提とする原子力規制委員会の審査内規「火山ガイド」は不合理。
  • 死者1000万人の壊滅的な被害の発生頻度は約1万年に1回と小さい。
  • リスクが根拠を持たない限り、安全性に問題ないとするのがわが国の社会通念だ

 

2017年12月の判決

  • 9万年前の巨大噴火で、火砕流が敷地に到達した可能性は小さいと言えない。
  • 原発の立地は認められない

 

別に原子力発電に反対しているわけではない。特に人類が宇宙に進出した暁には原子力が有力な発電技術になるので、研究を止めるべきではないと考える。

 

だから福島原子力発電所の事故を東京電力の過失とも考えていない。必要な措置が間に合わなかったという考えである。何mの津波に襲われるの検討は、過去の証拠と合わせて妥当でなければならない。指摘はあったにしろ検討の段階にあったと考える。

 

例えば過去に考えられる最大の津波を想定すればいいとすればチクシュルーブ・インパクトにおいて100mは超えているので、とても現実味がない。これは杞憂と呼ばれる類の話である。

 

勿論、空が落ちてくる可能性は 0%だが、小惑星衝突は 0%ではないので同列の語るのは誤りである。

 

だからといってレベル7の事故を起こした当事国として、その次に対しては慎重になるのが当然であり、合理的でない判断への責は負わねばならない。

 

裁判官は良心のみに従うよう憲法に規定されている。判決の結果に対してはなんら責任を問われる必要もない。それでも原子力発電所事故のような共同体の存続や滅亡とも結びつくケースではその判断誤りは決して無罪ではいられない。

 

もし伊方原発でレベル7の事故が発生したならば、三木昌之にはその責任を負う義務がある、どういう形であれ命をもって償うべきである。それだけの自覚がないならば、職を辞すべきだ。

 

一方でそのような厳しい負担に耐えられる人間などいるはずがないから、どちらの判決であっても、責任を回避しようとするのは当然である。禁止を続けるのも責任回避ならば、継続する判決も責任回避以外ありえない。

 

1万年に一回で、9万年前に最大の噴火をしたという地学的事実が確かならば、阿蘇山の噴火は明日起きても不思議はない。だがあと1000年は起きないかもしれない。だからといって間をとって500年とするわけにもいかない。

 

だから極めて起きる頻度が低いを再開する理由には使えない。だが、全く同じ理由によって禁止する理由にも使えない。何年に一回という事実は判断の基準にできない。

 

だが、禁止できないは危険がないを意味しない。リスクに対する備えが必要な潜在的危機として定義しておかなければならない。

 

それを裁判官は「リスクに根拠がないならば安全とするのがわが国の社会通念だ」と主張するのはとても容認できる論理ではない。社会通念という限りは何らかの根拠が必要だろうし、論文や調査結果から全員がそうと認める証拠が必要だ、その中に自分は含まれていないと思った人は多いだろう。

 

もし「社会通念がそうだから噴火は起きない」と考えているなら狂っていると言わざるを得ないし、この判決は多分に特定勢力への利益誘導を目論むものと見做されても仕方がない。裏金がやり取りされていても誰も驚かない。自然災害が人間の考えに応じて起きるものではない事は自明だ。

 

裁判官は根拠を示さなければならないが、そこに自らの意思を入れられないのなら、辞退すべきだったのだ。そういう人は、もっと簡単で被害も小さい話をやればいい。なぜこの程度の人間が高裁にいるのか。

 

だが、その一方で、これらの根拠を理由に発電所を禁止にするならば、国中にある全てのインフラが、同レベルの危険性に対応しなければならないはずだ。阿蘇山の噴火を危険視して原発を止めるのが合理的なら、一般道にガードレールのない歩道があることも同様に許されないと考える。

 

社会にある様々な危険性の中でも共同体を破壊するという点で、原子力発電所は、他の個々の命を失う事故とは同列に考えることはできない。だからといって、原子力発電所をすべて廃止するという決断はこの裁判所での判断を超えている。

 

それは国民の意志が示されなければならない事象であろう。阿蘇山噴火への危険性は0ではないが、明日に起きと決まった訳でもない。仮に起きても、正しく停止し冷却を続けられるケースも沢山ある。

 

最悪に対して準備することは必要であるが、だからといって常に最悪のケースに基づいて行動を決定することが正しいとは言えない。

 

そんなことをすれば、交通事故にあう可能性が0ではないから、家から出ないようにしよう。家にいても心臓麻痺で死ぬかもしれないから、いつも病院で過ごすことにしよう。病院にいたら何かの病原菌をもらうかもしれない。常に無菌室で過ごすことにしよう。まるでキリがない。

 

杞憂とはその論拠のバカバカしさを笑ったのではなかろう。答えのでない問題で脳が永久ループをしている状態を笑った話ではないか。

 

裁判所は禁止と許可のふたつの意見を出した。どちらが正しいかは誰にも言えない。だから、ここで問われている事は、我々の危機に対してどのような態度を取るかだ。

 

もちろん停止しておけば被害も起きないではないか、というのが本論である。だが、その論理を全てに適用したならば、我々の社会は停滞するに違いない。

 

運用停止すれば済む話ではない。冷却中であっても原子力発電所は止めてはいけない。もし止めれば数ヶ月で周囲を汚染し尽くす。だから廃止しない限りは、常に運用を続けなければならない。

 

どのような危機が想定されるか。噴火、断層、地割れ、津波、土砂崩れ、スーパプルーム、航空機の墜落、タンカー衝突、ミサイル攻撃、核兵器、隕石臭突、電磁パルス、危険は阿蘇山だけではない。

 

答えのない問題だから、どのような意見も必要である。どれほど下らない意見でも、どれほど高度な意見でも。だが、実際に必要なのは、停止中であっても運用は続いているという事。解体するまでは運用を続けなければならないという事。噴火があろうと、なかろうが、危機と常に対面しているという事。

 

そして常に危険に対してはどこかに限界があるという事。その想定をよく話し合うべきだと思う。