庁舎室温3度下げ、25度に 姫路市「仕事効率上がる」:朝日新聞

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この記事に久しぶりに朝日新聞の本質を見た。情報操作とはこうやるのか、という良い見本だと思うのでその技術の精髄を調べる。


記事要約
市庁の温度を25度に設定したら快適になった。

ポイント

  1. 一般的に28度とされる。
  2. 市長の決断でこれを25度に変更した。
  3. 25度の方がよいという論文もある。

 

解説

兵庫県姫路市は市庁舎内の温度を、今夏は例年より3度下げて25度にすると発表した。環境省は、クールビズ期間の室温の目安を28度と推奨しているが、市は「25度の方が仕事の効率が上がる」との科学的な提言をふまえて、試行する。 

 

起きた事は極めて当たり前で、28度設定では暑いから25度にしたら快適になった。それだけの話である。

 

市庁としては、エアコンの温度を25度にする理由として、 作業効率の向上を上げている。それによって「28度による残業時間の増加 < 25度による残業時間の削減」におけるエアコンの使用エネルギーが抑制できるなら温暖化対策としても適っている。

 

一般的にエアコンの設定温度を28度とすると、暑すぎる。影に入る、風によって熱を逃がすのが昔の方法であったが、現在ではコンピュータの排熱、建物の蓄熱、日中の高温化など、エアコンなしの生活は考えられない。

 

エアコンの温度を下げると電気代が上がる。これは当たり前の話である。それが省エネ、エコロジーに逆行するのが問題だ。そういう状況で25度を持ち出したのだから、これは画期的という記事である。

 

この記事の論点は、温度を下げると時間当たりの電気使用量は上昇する。その代わり、作業効率が上がり残業時間が削減できれば総合的にエアコンに必要な電気代を減少させられるのではないか、という話である。

 

早い話が、理屈はどうでもいい。28度という世間一般の常識は限界に達したという話である。

 

環境省は2005年から地球温暖化対策のため、クールビズの際には、冷房を28度に設定することを呼びかけてきた。同省の担当者は「25度に下げた自治体は聞いたことがない」とし、「28度はあくまで目安。健康や仕事効率などに影響がない範囲で設定してほしい」と話した。

(直井政夫) 

 

記事を書く時には悪者を登場させるのがよい。それも明示しないで。誰も非難してはならない。それでも読めば誰が悪者か分かるように書く。それがよい新聞記事だ。

 

そもそもの問題が28度なのである。そこに根拠がないなら一層よい。根拠があるかないかは簡単だ。根拠を記事に書き込まなければよい。

 

環境省のホームページを読めば明らかである。

<どうして「28℃」?/COOLBIZ|COOL CHOICE 未来のために、いま選ぼう。>

ondankataisaku.env.go.jp

  1. 軽装の28度と背広の25度ほとんど同じ温熱感。よって背広で25度設定するよりも、クールビズを導入して28度とする方がエネルギー消費量は減らせる。
  2. 体感温度代謝量、着衣量、気温、熱放射、風(気流)、湿度によって総合的に決まるので総合的な対策が必要である。
  3. エアコンの設定温度が28度でも室内温度が28度とは限らないので、適切な温度設定を心がける。
  4. エアコンの温度設定を過剰に低くしない事は電気消費量を抑制し地球温暖化対策の取り組みに寄与する。

 

環境庁は28度を、最低でもこの値までであり、28度以上はあり得ない、という意味で使用している。一度も強制も強要もしていないし、きめ細かな運用の必要性も認識している。

 

だが、この記事しか読まなければ、環境省が強制している状況に対して、まるで市庁が疑問を感じ、新しい取り組みを始めた、という様に読めてしまう。

 

何がこの新聞記事でうまいかと言えば、それを次のたった二文で実現している点だ。

環境省は、クールビズ期間の室温の目安を28度と推奨しているが

冷房を28度に設定することを呼びかけてきた 

 

推奨している『が』。逆説で続けば、最初の文は否定的、批判的であるに決まっている。人はそういう印象で読み取る。これによって28度を言い出したのが環境省であるという前提が刷り込まれる。

 

真実の後にこそ、巧みなフェイクは織り込めるのである。冷房を28度に設定する、とあれば、普通は設定温度を28度にすると考える。ここが巧妙であって、室温28度と設定温度28度は違う。そういう話は記事のどこにも明記されていない。

 

もちろん、丁寧に読めば室温という言葉によって反論できるように書かれている。そういう印象を持ったのは読書の勝手であり、我々はそういう意図では書いていない、という風に構成している。

 

誰もが勝手に読む。設定28度という数字が一人歩きした。人間は難しい言葉を伝達する能力は持っていない。室内温度を28度にするのは困難だが、エアコンの設定温度を28度にするのは簡単である。

 

それが瞬く間に全国の常識となった。自分の中にある暑いか寒いかなど誰も相手にしない。見るべきは設定温度の目盛りである。

 

敵性語は最も簡単な戦争中の取り組みであるが、ごく自然に自発的に発生する。その法的根拠も、論理的整合性も必要なく、ただ団結的であるために行われた。団結的を言い換えれば「言い訳ができる」になる。

 

この国ではすぐに数字がひとり歩きする。その時、人間は忘却される。それが正しい。言い訳するのに人間は持ち出せないからだ。そうやって自ら数字で膝を折れば、それに常識的に立ち向かうのさえニュースになる。

 

火をつければ、それを消すのがニュースになる。彼らがあくまで公平性というとき、それは、傍観者という意味である。