チンパンジーにも人権があるのか?米NY裁判所で“不当拘束”訴え クジラ、イルカ問題への

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イギリスで奴隷制度が廃止されたのが1772年のマンスフィールド卿の判決によるものとして、それまでは黒人奴隷はヨーロッパでも普通に行われていたと思われる。

 

奴隷の解放が自然権基本的人権から起きたのではなく、貨幣経済の発展によって、労働力の提供が人間から機械、または奴隷から労働者に置き換わる事で初めて達成できたのだと思う。

 

社会の形が変わるのには色々な要素が複合する。経済的な発展、貧富、技術、思想など様々なものが絡みついた社会は常に全体として揺れ動くからだ。

 

いずれにしろ太古から奴隷は存在するし、人間が人間をどのように扱うかは時代の通念に支配されているとはいえ、それを実行する人間には、そこに良心を見出せない何らかの理由があるはずである。

 

例えば、蚊を殺す事に痛みを感じる人は少ない。例えば、肉屋の前で、これが自分の子供の肉でもあなたは食べることができるのか、と問いかける人も、八百屋の前で、これはまるで死体の集積所ではないか(この時点で野菜は死んでいない)、と叫ぶ人も少ない。

 

そんなことを言えば、今朝の排便の半分は、腸内細菌の死骸である。体の中では幾億もの細菌が免疫によって殺される大量虐殺の現場だ。果たして、どこまでの命をどういう理由によって優遇するのか、当然ながら、優遇する以上、不遇にする対象もいる。

 

猿の感じる痛みを人間が感じるのは、もちろん、人間の当たり前の感情のはずである。しかし、それで裁判を起こすとなると、それは尋常とは言えない様に感じる。これは単なる時代の空気のせいか。

 

しかし、例えば、牛を飼っている人が、自分の子供と変わらんのです、と言いながら、翌日には屠殺場に送ったり、政府の首相が、あななたちは我が国の誇りですと言いながら、兵士を戦場に送り、戦死して戻ってきたらテレビの前で涙を流すが、遺族には一銭も払わないという事例は本当によくある話なのである。

 

言葉が人間を狂わす、もしくは狂った事を隠蔽してしまうのではないか。人間は、疑いようのない事象を根拠として判断をする事もあれば、自分に都合の良い結論のため便利な事象を探す事もある。結論が決まった議論もあれば、結論の見えない議論もある。

 

なぜその結論を望むのか、という事はとても重要だろうと思われる。その結論に達する為になら、如何なる根拠も思想も必要はない。役に立つとは、有利な決着を付けるものである。自分を誤魔化してくれるならこれほど有難いものはない。いつか、無視できなくなるまでは。

 

よって、チンパンジーが賢いから守るべきなのではないはずである。それが事実なら、賢くない人間は殺していいはずだし、殺すべきだという結論になる。灰皿と地球の区別ができない人間は、脳の構造は人間だが働きは犬猫と同様である。犬猫にはそのような機能がないから仕方ないとして人間でそれなら欠陥は明らかである。殺そう。

 

人間の姿かたちをしているだけで優遇する根拠は何か。では人間の姿形とは何か、肌の色か、持っている文化か、それとも有している資産の量か。DNAのある配列か。それともその出現の仕方か。

 

猿が人間でないとして、毛深さだけが人間でない事の根拠であるか。いったい人間とは何かと問う時、人間だけを特別扱いする以上、それは歪んだ土台の上に建築を続けるしかなく、その矛盾がどこかで突かれ土台ごと倒壊に至る。

 

それをどう考えるべきかと問われる時、200年後の世界でイルカやチンパンジーがどう扱われているかは我々には決して分からない。それを馬鹿馬鹿しい問題と笑っていられるのも今だからだろう。

 

そして多くの人にとって、どうなろうと影響のない問題である。その頃には生きていない。チンパンジーが研究に使えなくなって医薬開発がスローペースになろうが、はなから無いならどちらでも構わないのである。

 

それが、いつか生類憐みの法のような形になって自分の身に起きるまでは全く関係なくてよい。特にこの国には、多くの海外の問題からは遠く離れて居られたから。

 

動物愛護とは表面的には動物によりそう愛情かも知れないが、その底にあるのは、果たして人間とは何であるかという問いであろう。何が人間であるのか、何が人間を決めるのか、それから外れたものは人間でないとしたら、人間として扱わない事は正当なのか。ならば人間でないなら何をしても正当であるのか。中世に太平洋の島々で原住民を狩りして楽しんだように。

 

それはもしかしたら、人間から進化する新しい種を我々が受け入れる為の準備かも知れない。何故ならその種によってヒトという種はこの世界から駆逐されるだろうから。