NHK番組に国際エミー賞 「山賊の娘ローニャ」

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退屈という点では宮崎吾郎よりも高畑勲の方が上だったりする。アルプスの少女ハイジ赤毛のアンも退屈極まりなかった。それでも見た記憶があるから不思議だ。

 

太陽の王子ホルスの大冒険も、面白さはもりやすじのヒルダに極まるし、火垂るの墓はあの音楽でなければ逃げ出していたかも知れない。

 

おもひでぽろぽろ、気持ち悪い頬のラインと、人工的な田舎臭さ(柳葉敏郎)のせいで、もうどれだけ新しいことに挑戦しようとしているんだ、全部裏目じゃないかという感想と、しかし、これはこれでありかもという境界線上で悩みながらも、愛は花、君はその種子が聞きたい一心で鑑賞する。どれだけの苦行かと思ったりもする。

 

しっかりと場面を描けば展開が遅くなるのは当然と思える。特に心理描写に時間を割けば尚更である。それは移り変わる心理描写となって、純文学の範疇だから、それをアニメーションに持ち込めば、純文学と同じ道を辿るのが理屈である。そこに待っているのは、退屈さと面白みのない薄っぺらな日常描写である。

 

もう、いつもより精子の量が多かっただのキスの時に餃子の味がしただのそういう類の話をえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんえんと気取った文体で読まされるのである。いい加減にしろと叫ぶ前にページを閉じるのが当然。エロ本を書くならもう少し真面目に書けと言いたい。

 

それでも、僕は高畑勲平成狸合戦ぽんぽこが大好きである。もちろん最初から面白いと思っていたわけではない。下らなさの極致だと思っていた。それが20年の月日によってその面白さが分かるようになったのである。

 

昔は広く無頓着であった。物語の中にあるメッセージ性やその追及の仕方にばかりフォーカスしていて、清川虹子の芸の力への感受性は皆無だったのである。

 

彼女の声に誘われて狸の競演に見入り、物語の前にたたずんでいるうちに、狸が駆け始める。いつでも誰かが聞こえてくる頃には、僕の中での高畑勲への評価は全く違ったものになっていた。

 

今日見た作品を退屈の一言で片づける事は簡単だし、それが間違っているとは思わない。しかし、だからと言って明日も同じ感想とは限らない。明日には明日の感想がある。今日のブスは明日の美人かも知れないし、今日の美人が明日にはブスになっているのは女優を見ていれば枚挙に暇なしである。

 

宮崎吾郎は今のところ、歯牙にかける必要のない作家だと思っている。彼から何か感動を頂いたことはないし、まずメッセージ性が陳腐である。陳腐の上に、鬼気迫るものもないから(もちろん、これは彼の作品を見たことがないからなのだが)、なおさら評価する気にはならない。

 

父親との関係以外の何かが彼にあるのだろうか。ふんふん、プレッシャーは凄いだろう、頑張れくらいなものである。

 

彼が何に悩み、立ち止まり、迂回し、のたうち回っているか、それが聞こえてくる気配がない。宮崎駿の七光り以外の何に苦しんでいるのか。とさえ言いたくなる。

 

その割りに親に反抗する気配もなく、あの宮崎駿の息子がエロアニメの大作家になった!とかの方がよっぽど笑い転げられて、楽しそうである。

 

今の彼は、少なくとも同じ路線じゃねえかという印象をぬぐえない。親子だからって、正統な後継者になれる訳もないし、作家性とはそんな薄っぺらな伝わり方はしないはずである。

 

だからエミー賞と聞いても、だから?という感じしかない。軽くみた限り、山賊の娘は見たいと思わせる作品ではなかった。どうせ人権でしょ、という感じの話である。山賊である必要性さえなかった。人の売り買いをしていっぱしの山賊だろ、的な感想しか湧かないし、ならこの山賊ってなんだよ、峠のむすび屋かよ、という感慨しか持てない。

 

それでも誰かの評価を得たのなら、それはとても素晴らしいことだ。詰まり僕にとっては退屈な作品でも、誰かにとってはとても大切な作品であるという、とても当たり前の話に帰結したのだから。

 

彼が本当に好きなものはなんだろ、それが今の作品からは感じられない。どうせ作るなら、自分の好きなものへのオマージュが感じられる方がいい。ドキュメンタリーのようなものの方が合っているんじゃないか。そんな気がする今日この頃である。