ユーモアか、暴走か 三島由紀夫賞・蓮實重彦氏の“チョー不機嫌”

文学賞はキャラの立っている人に与えよが、西村賢太 あたりで注目された。この人も記事を読む限りでは、昔からそういう意識の人であったらしく、

文壇の偏屈爺いを演じているだけではないか。

ちょうど、ピースの又吉直樹が文豪気取りなのと同じである。もちろん、気取っているのは彼だけではない。みんな何かを気取っているわけで、キャラというものはそういうものだろう。

世間から見れば、そんなに文句があれば受賞しなければいいのにという話はあるが、断れば自分の意見を主張する機会を失う。それならば、受賞して、そこでコメントする方に価値を見いだす、というパラドックスもある。

その構造が面白いかと言えば、下らねぇの長渕剛であって、「フランス文学者にして批評家の重鎮、元東大総長」と、これだけ肩書を持っていたら、そりゃ本人なんか、どーでもいい質問しかでないだろう。

だからといって、ではこの人の批判や内容が見るべきものがある、とか、ともて重要な問題と格闘しているのか、と言えば、知らない。

読んだこともないし、テレビでのやり取りを見る限り、なんらかの孤独や、心ここにあらずといった問題と対峙している雰囲気もない。

その印象を言えば、まぁとてもよくできた常識人といった感じである。

だが、作品も読まずに批判するのは、印象批評というものであって、印象派と呼ばれるのは、まぁうれしいことだが、あまりよろしいことではあるまい。

といっても、そのプライオリティはとても低いのである。だいいち、これだけの賞をもらったのなら、もう少し、本であったり、批評であったり、彼の課題というものが話題になって良さそうである。

せめてもと思い wikipedia を見たが、特に何もない。

「説話論的な磁場の保護から出て、誰もがごく自然に口にする物語を、その説話論的な構造にそって崩壊させるというのが、彼の倒錯的な戦略であったはずだ」(p.25)

という文章を書くそうだが、この分を読む限り、物語の構造論を語りたいようである。しかし、磁場の保護って物理学ではどういう意味?という肝心の説明ができそうにない例えである。

つまり、形容や副詞をなんとなくのイメージで紡ぐ、例のよくある、文学者にありがちな、論理性があるようで、なさそうな、ざっくりいえば、物理学者になれほど頭はよくなく、しかし、社会でやっていくほど機転も利かないといった感じであろうか。

あまり興味がない。文壇の中でこっそり咲けばいい。

ああ、もう少し調べるのはもう時間がない。間違えているかも。

そうだ、フェルマーは間違えているかもと一言書いておくだけで後世の歴史を変えられたのに・・・