石原さとみ、始球式でトルネード投法 昨年のマサカリ投法に続き

 

相武紗季は消えたね。結婚が完全に裏目にでた。ほとぼりが冷めるまで待つしかないけど、空いた席がいつまでも埋まらないほど、のんびりとした世界ではない。

 

特に2016年はCMの転換期と呼んでいい。それまでなじんでいた女優が次々と新しい人に置き換わってゆく。

 

これは当然と言えば当然だが、30近くの女の何が見たいのだ、みたいな価値観が日本にはあるのである。国連からどれだけ非難されようが如何ともし難い。なぜなら源氏物語からして、高校生至上主義みたいな物語であるから。これはもう民族的な血である。どうしようもないのである。

 

その中で、少し見直されたのが長澤まさみであって、あれだけ顔をいじくった割りに、存在感が失われていない。もちろん、CMとかでは見る影もないが、ドラマとなると、いい存在感を出すわけである(真田丸、金メダル男など)。

 

これは演じるというカメラの中での魅力であるが、CMとドラマと舞台では、演じ方が違うという事でもある。CMがもっとも日常感を出さなければいけないから、もっとも抑えた演技をする。

 

特殊な例として、斉藤由貴夏帆「魔法のカード」篇のコミカルな感じのもあるのだが一般的には日常が女優のキーワードである。

 

一方で、ドラマには世界観があって、すこし羽目を外した感じが望まれる。日本のドラマはどれもコミカルだからである。非現実的をそういう形でしか表現できない作家たちの力量を俳優たちが補完しているわけである。一般的に、長い間を持たせる演技力をもつ俳優は稀である。

 

さて、石原さとみなのである。なんか貫禄が出てきたのである。もう小娘って感じはしない。

 

所が、恐ろしい事に、彼女の顔は基本的に幼さ、清楚、美人、くりくりお目目とぷりぷりくちびる系であるから、(もちろんパーツの一部はそうでもない所もあるが、全体的には)、次第に年を重ねた感じがどうなるか読み切れない所がある。

 

同じ話は、新垣結衣にもあって、何度も20台後半の女性を演じようとしたが、どうしても幼さが取り除けず、未だに16茶では子供といっしょに遊ぶ感じを伴わなければ成立できないのである。

 

このように30がひとつの目安として、どう向き合うかが女優としての恐らく一大事であって、この年を境に演技も考えてゆかなければならないね、どう脱ぐ?というのは、年齢は別に女優だけの話ではなくて、風姿花伝にも書かれている事だから、演じるという事については、ずっと昔からある課題なのだろう。

 

確かに70歳が演じる10代というのは、恐らく難しいのである。どれだけの演技力があっても、どうしようもなさがある。

 

これは演者の問題ではない。ひたすらに観客側の問題である。更に言えば、それは人間が外界をどう取らえるかという脳的な話である。

 

これは、例えばよく出来たロボットと生身の人間が区別できるか、という問題でもある。答えは、ふたつが示す光子の集合が同一ならば、区別できるはずがない、という帰結である。

 

もし違いが見分けられるなら、その間に差異があるはずである。差異がある以上、必ずその差は埋められる。よって、いつかは区別できなくなる、この論理性は成立する。

 

さて、新しい時代の幕開けである。これまでの方々には退場して頂きたい、新しい若い人が中心となって盛り上げてゆく。

 

その中で、生き残るものはだれか、海軍で言えば、どちらかと言えば、新造戦艦よりも、旧型戦艦こそが気になる。空軍でいえば、F22よりもF4の行方が気になるといった塩梅であろうか。