「残業100時間で過労死情けない」武蔵野大学教授のコメントに非難殺到 「考慮が欠けていました」と謝罪

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311が改めて膾炙した知見に、大学教授と言えども、ぼんくらは腐るほどいる、と言う知識がある。

 

この武蔵野大学の教授と名乗る人も同様であって、教授という肩書など、ようは経営者になって社員を合法的に奴隷扱いするには、どのような法律が必要かを研究していると自白しているようなものである。

 

故に100時間という時間に反応する。自分たちの時にはそれくらい働いていたというわけである。

 

こういう謝罪をする人を見ればわかる通り、謝罪したのは批判をかわすため、沈静化するための所作であって、自分の考えを改める気など全くない。

 

どうも最近の謝罪はこういうものばかりが主流になっていて、長谷川という苗字の人は、こういう人ばっかりなのかと、ちょっと迷信でも信じそうになる。

 

当然だが、人間の集中力には時間的な限界があって、どのような人間であっても100時間の集中力は不可能である。

 

それが出来ていたという人は、よほど生産性がなかったか、働いているようで実は、のんべんだらりと時間だけを浪費していた人であろう。

 

まあ、試しにこの人も残業を100時間、三か月、やらせてみればいいのである。自殺をする前に、天寿を全うする幸せな人生が送れるだろう。

 

当然だが、人それぞれによって回復力は異なる。必要な休息時間も異なる。また、目の前の業務だけでは、そのうち、自分の中の財産が枯渇するのは当然であって、使い捨ての人材でもない限り、休息と回復、業務と学習というサイクルは必ずであって、雇用してゆく側にとってその時間配分は当たり前である。

 

それが出来ない以上、人間を奴隷としても構わない、使い捨てするという思想を持つしかなく、まさにこの発言は、他人を奴隷としたいという欲望の発露でしかないわけである。

 

電通社員の自殺は労災として認めたと言うが、社会的正義でいえば、これは殺人である。拳銃の変わりに、業務という凶器で人を死に追いやったのであるから、当然だが、法人も、取締役社長も、そして現場の責任者も、殺人罪で起訴し死刑に処すべきである。

 

好き勝手にやることは自由であるが、それは、起きた事への責任の厳罰化とセットで初めて成立する。自由に伴うのは、義務ではない。罰則である。

 

社員を自殺するまでこき使ったら、殺人罪で起訴するのは当然だし、そろそろ、死刑となる経営者が出て来なければならない時期である。

 

今の日本の構造は、ほとんど限界まで来たと見做すべきで、ほぼ無給状態で働いている人たちが支えて、やっとこの国が成り立っていると言っても過言ではない。

 

そこが一斉に崩壊する前に、恐らく徐々に停滞しようとしている。この停滞は、これだけの政府、日銀による経済刺激策にも反応しないほど、根深いのである。

 

政府もなんとか、その間にあるはずの均衡点を見つけようとしているが、この均衡点は、江戸時代風にいえば、百姓は生かさぬように殺さぬようにである。

 

だから、そういう中において、社会的正義というものへの希求が強まるのは当然であって、状況が苦しくなればなるほど、形而上学的な何かが欲望されるのは当然の心性と思われる。

 

そういうものを一身に受ければ、簡単に民主主義は独裁者に手に落ちる。その危険性はドイツの例を見ればわかる通り、経済的な不満、格差が根底にある不満にある。

 

WWII後において、中間層の拡大がそれに対するひとつの答えであったのに、先進国の優位性、没落の始まりにおいて、真っ先に破壊されたものも中間層であった。

 

つまり、明らかに経済は新しい形に変貌しようとしているのではないか。