映画「この世界の片隅に」は日常系アニメ たとえ戦争中でも生活は続いている

戦争中も生活が続く。という話がアニメの中の出来事であったり、押井守の映画の中に閉じられている事に奇妙な感触を得た。

これだけのテーマを語るのに完全に日本の中に閉じられている。興味は生活でも戦争でもない。作品を分析したいという思いだけなのだ。

それがこの世界とリンクしようとしていない。

生活と戦争を語るならば、否応なく、シリアであれ、アフガニスタンで働くアルベルト・カイロらの活動であれ、何気に見ているいま世界で起こっている事の中に、それを放送するテレビの中に登場してくる話題でいっぱいである。麻薬地帯であれ、アメリカのブルックリンのような場所でも、生活は現在も絶賛進行中である。ゴミ集積所でその日を食べるためにゴミをあさる子供たちのCMからもそれは伝わってくるのである。

なぜアニメになかにそれは見つけられるのに、この世界の中には片隅がないのか。地球が球体だからか?どこまでいっても隅っこなどないからか?

この映画を見ていない。だから特に何かを語りたいという気も起きないのだが、生活というものを描いている、というのは分かる。

この作品を見てなにかを感じること。その正体が何であるかを見極めたいと思う気持ちはだれにも起きるものだろう。

それは人それぞれで落とし前をつければいいのであって、その落とし方にその人のすべてが投射されるものだろうと思う。その人の世界がすべて動員されるといってもいい。

自分の見たいものを外の世界に映し出すということはだれもがする事だ。それをプラトンは洞窟の影の挿話として語った。

宮﨑駿の後継者が誰になるかなど、ゴシップな話である。彼の後継者などいるはずがない。ドストエフスキーの後継者などいないのと同じくらい自明な話である。

そういうところに興味が行くのと作品について何を語りたいのかは、僕にはよく分からない。素晴らしい作品が生まれることは、その経済効果に特別に何かを見出したいという気持ちがないことと同じくらいに。

キャラクターをステレオタイプで語ることは詰まらない話だ。誰にでも理解できる形にするのは、おそらく間違えている。こうの史代が丹念に描いているものはそういうものではないか。

だれもがそれぞれの生活を営んでいる。だれひとりとしてなおざりに描いた人物などいない。通りすがりの人にさえ生活がある。そのような視点だけが作品の世界を支えていると信じている。