キューバ、私有財産認める 憲法改正、社会主義は維持

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このニュースを見て、墾田永年私財法?と思った。この名前を聞くのも何十年ぶりだろう。もし私有財産共産主義の終わりだとしたら、日本もずいぶんと前に社会主義を経験したのだなぁと思った。

 

私財化は、当時の律令制を終焉させたとある。すべての土地を国有地(最終的には天皇の私有地)を個人の私有地として認める。つまり土地の譲渡である。そうしないと「由し是れ農夫の怠倦、開地は復た荒す」とある。つまり私有化を認めないとみんな勤労意欲を失い、生産性が立た下がりだということらしい。

 

wikipeida には「三世一身法の施行からまだ20年しか経っておらず、3代を経過して農民の意欲が減退するという事態が本当に生じたかは疑問が残る」とあるが、ソビエト連邦の例を見れば、20年もあれば十分な気はする。あの近代工業で攻めたソビエトでさえである。743年の時間はもっと緩やかであったろう。

 

歴史学者は資料を読んで、その行間、資料と資料の間を補うのに想像力を使う。だから彼らは空白を想像力で埋める人種だ。だから、根底となる人間性が陳腐だと、解釈も陳腐になる。そういう業を本質的に背負っている。

 

その怖さを意識している人は少ないようだ。資料を基礎としながらも、すべては主観で埋め尽くされる。資料、公平、証拠、合理性をうたい、見てきたかのように語る人の多いことか。

 

客観など共有された主観に過ぎない。誰かの隷属である。誰かから批判を受けないようにした意見のことである。トヨタのデザインである。そんな陳腐さと、まるで見てきたかのようにありありと当時を思い浮かべられる想像力がなければどうして面白い歴史など生みようがあろうか。すべて誰かの史観である。歴史に真実というものなど原理的にありえない。

 

この勅によって土地の流動性が失われ私有地である荘園が発生する。それは貴族という階級を生み出し、平安時代への幕開けとなる。税務署には、国家の歴史とはすなわち租税の歴史なり、と豪語する人もいるだろう。

 

国家がどのような根拠で税を取るか、その根拠とそれによる国力の推移は歴史を串刺しにするのに面白い視点と思う。というか、これがど真ん中にある。歴史とは税制の歴史である。

 

日本の租税は大化の改新で完成したらしい。狩猟から農耕となり、長期保存可能な穀物が集積できるようになった。蓄積が富になる。これがその後の歴史を決定づけたはずである。狩猟は個々人の技術がものをいった。農耕は蓄積した量がものをいう。

 

私財法は、インセンティブによる増産を目指したものであるが、社会への影響は極めて大きかった。日本では、これを境に荘園が生まれ、平安時代を切り開き、室町時代まで租税の基礎として続く。

 

これを変革したのが豊臣秀吉太閤検地であり、徳川幕府もその上に基盤を気付く。どれだけの戦力を保持しようと、それを支える租税なく国家は成立しない。そして、裕福になれば、数多くの権力者が生まれる。

 

権力者が多発すれば、争いが起きないはずもない。理由などいらない。争いは必ず起きる。自分に富を集中させようと行動する。だから税を巡って、多くの対立と歴史的な大転換が起きた。

 

人間の歴史は税制改革の歴史だった。憲法の始まりとなるマグナカルタアメリカ独立へと続くボストンお茶会事件。大切なことはぜんぶ税への不満である。

 

公平な税金など存在しない。もともと、それをとる根拠がどこにもない。だからもっとらしい理由をつけて税金を課す。多くの人は、理知的だから国力が衰えて混乱するよりは税金を払い安定した社会を得ることを選択する。

 

だからある程度の富裕層の発生も許容する。この辺りの舵取りが極めて国家に重要である。あのアメリカでさえ現在の貧富の格差は初めて体験しているはずなのだ。

 

その異常事態になぜ彼ら(He/Her/These)が無頓着であるのか。それは彼らがアメリカンドリーム(自由と知略)の結果として得た地位、富について文句をいうのはアメリカ人らしくないと考えているからだ(多分)。

 

だけど、もう暫くすれば、何を言っているんだ、彼らの地位はすべて世襲ではないかと気づくだろう。世襲によって地位を得ることのアンフェアをアメリカの原理は否定すると思われる。それがアメリカをどういう方向に動かすだろう。

 

つまり、もっとも社会主義に近いのはアメリカである。おもえばカールマルクスは、資本家たちに浪費される労働者の悲惨さを救いたくて学門を進めた。その結果、見出したのが社会主義であろう。

 

ノーベル経済学賞もない時代の慧眼は20世紀の壮大な実験で失敗に帰す。それはマルクスが愚かだったのでも発想の瑕疵でもない。マルクスの人間観が美しすぎただけだろう。

 

経済的な貧富、アンフェアさを看過できない。人類史において誰よりも早く(たぶん)警鐘を鳴らし、のみならず学問としての体系を敷き、道筋を見出そうとした。彼の失敗を誰も笑うことなどできないはずだ。

 

21世紀は経済の時代である。経済学の時代である。それを如実に示すこれも一例ではないか。