逃げるは恥だが役に立つ - 新垣結衣

日本のドラマにしてはめずらしく、新垣結衣のドラマは割と見てきた。マイ☆ボス マイ☆ヒーローは面白かったし、空飛ぶ広報室はベストな類のドラマだと思っている。

 

そんなわけで彼女の始まりから、現在までウオッチしてきたと思うが、その演技が好きな訳ではない。CMなどにハッとする表情はあるが、それは永遠の瞬間の類である。

 

ほとんどの役柄が、頑張っている新人、力がなくて悩んでいる人である。未熟者が周囲の助けを得て頑張ってゆくという典型的なストーリーである。

 

くちびるに歌を」でも同じような役柄だったが、もっと未熟な立場の生徒たちが登場するので、まったくパリッとしなかった。彼女に生徒とやり取りする役柄は合わなかったのである。ロビンウィリアムズの「いまを生きる」のようにはいかなかった。

 

もちろん20代ならそれでもいい。彼女の真価がそんな所にないことは、生き恥で証明されている。

 

同世代の注目すべき女優には、他に、真田丸で特異な配役を演じきった長澤まさみシン・ゴジラで印象深さを残した石原さとみらがいる。

 

長澤まさみ大河ドラマにおいて異質な存在ながら、作品全体にリズムを与え、流れに抑揚をつける役どころを要求され、見事に彼女なりの個性で応えた。

 

石原さとみシン・ゴジラの中で、賛否両論あるにしろ、作品の中の核という虚構を現実化するための極めて重要な立場を演じ、作品の中にあるリアリティを支える一人となった。

 

彼女たちは、みんな自分の色で演じようと懸命である。もちろん、どのような役でも演じられるような勉強はしていない。もちろん、コメディからシリアスな役まで応じられないわけではない。

 

彼女たちはみな「飽きられる」ことと戦わなくてはならない。木村拓哉がどれでも同じと言われてもトップクラスでいられるのは「飽きられない」工夫ができているからだ。誰にも気づかない細かい所にまで工夫を重ねているからだ。

 

そういう演技論、俳優論を深めながらも、何より彼女たちは顔の変化と向き合わなくてはならない。年を取れば印象が変わってゆくのは自然である。だが、観客がそれを受け入れるかは別の話である。

 

新垣結衣の作品は、基本的に小ぶりなものが多い。佳作、良品という感じである。大作を支えるには線が細い印象だ。物語の脚本の優劣を別にしても、この作品は彼女でなければならない、というものは実は少ない。他の人でもそれなりの作品になっただろう、と想像できる。所が、印象として彼女以外だとこのような印象は受けなかった、という作品は実に多い。

 

 今回のぼさぼさの髪というのは、ちょっといい感じだ。いやちょっとではない。すごくいい。当然だがエンディングの踊りが最高に魅力的だ。これは余人をもって変えるに能わずである。

 

この圧倒さはどこから来ているのか。2016 年の No1 女優を選ぶなら、やはり新垣結衣になってしまうのである。

 

振付はMIKIKO。知らないけどこの人の凄さが突出しているのかも知れない。なんか幼稚園のお遊戯という感じしかしないのに、見事に成立している。きっと踊りとしてはハイレベルにあるんだろう。

 

なぜ彼女はあそこで踊っているのか、深読みすれば、あれは彼女のプライベートビデオという気がする。役柄で踊っているのではない。そこにいるのは正真正銘の新垣結衣。魅力こそが彼女の正義。

 

日本の踊りと言えば、能だの歌舞伎だのが伝統であるが、御国の時代には、あれがとっても魅力的な娯楽だったわけである。それが明治になって西洋の踊りが入ってくると次第に芸術色を帯びてくる。伝統というフィルターがなければ果たして成立するかどうか。明治以降の日本の芸能・芸術はどれも「凛」がキーワードになっている。

 

日本の芸術は、明治でがらりと変わった。それまでの面白みとか可笑しみは失われ、何かしらの緊張感が溢れるようになった。構図からして1mmのずれも許さないような探求性、ただひとつのラインを探し出そうとする意志が強く感じられる。江戸時代のような手が勝手に動いたような自由闊達さはない。狙いに狙い、計算しつくして決めるような緊張感だ。

 

ダンスも、高度でハイレベルな技術、圧倒的な才能、身体能力に驚くのがダンスだと思っている。プロが存在する以上、高いレベルが要求されるのが当然だと考えるようになっている。だが、義務教育にも導入されたように、踊りは本来すべての人が楽しめるものである。

 

そこに脱力と呼ぶような「楽しんで踊る」ジャンルが登場した。振り付けた人たちの思いは、明らかにそれまでにはない楽しさの創造のように思える。僕たちは間接的にだが、そのチャレンジに驚いているのかもしれない。

 

それを担った新垣結衣の魅力は何か。

 

思うに新垣結衣は恥じらいの女優である。エンディングの踊りが素敵なのは、彼女の中に恥じらいを感じるからだ。

 

この恥じらいと彼女はどう関わってゆくのか。彼女の年齢とともにどう変わってゆくか。これが彼女を見るという事である。それはとりもなおさず彼女が年齢とどう向き合ってゆくかと等値のはずだ。