【囲碁】井山裕太七冠陥落 碁聖戦、許家元七段が最速タイトル

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あまりウオッチしてなかったから驚いたと同時に喜ばしいと思った。だから考えた。すべてのタイトルを取るだけではなく、連覇を許しているのは、井山が強すぎるか、それおとも他が弱すぎるからか。

 

囲碁の戦い方はひとつではない。石の働きの良し悪しの答えがひとつとは言い切れない。読むだけなら簡単とプロは言う。だがそれをどう評価するかが難しいのだと。それでも相手より深く読んでいる方が有利なのは違いない。純然と能力を競うゲームとして読みの戦いという側面が囲碁にはある。

 

よく分からない状況というものがある。まるで暗闇の中で歩いているかのようらしい。そういう場合には、全体の流れや、構想力に頼って勝負に挑むことになる。仮に読みでは相手に劣っても、それ以外のところで相手と渡り合えばいい。この大前提にあるのは、どうせ相手もたいして囲碁のことはわかっちゃいないのだ、という信念である。兵力の差を戦術で挽回する。ヤンのような、といえば分かりやすいだろうか。

 

神様と比べりゃ4か5という話があるが、さてアルファgoはなんと答えるだろうか、囲碁の取りうる全局面に対して自分が把握している棋譜数の比率で答えるのがコンピュータらしいか、と思う。

 

勝負事は人間を相手とするものである。だから、相手の人となり、考え方、クセが分かってしまうと、不思議と勝てる場合がある。盤上で恫喝するような手を打てば相手が勝手に怯む場合もある。分からないがあたかも決まったかのような顔をすると相手が投了する場合もあろう。これは政治的とも言える側面だろう。ゲームにもそういうものは入り込むのである。

 

もっともこのような戦い方を続けていると次第に頭打ちするのは目に見えている。なぜなら鈍感な人、無頓着な新しい人が相手になると、全く通用しないからだ。文化の違い、もそうだろう。海外の選手との対戦にもそういう側面がお互いに出る場合があるだろう。相手のやり方に面食らう、というのは、例えばマイク・タイソンが最初っから速攻にきてそれに対応できずに負けたというようなもんだろう。役に立たなかった(ナチスを迂回させたので役にはたった)マジノ線の例もある。

 

プロ棋士が盤上で怯まないからといって勇気があるのではあるまい。どちらかと言えば彼らは臆病者であるはずだ。彼らほど危険な場所に敏感な人たちはいないだろう。

 

人間は発生的に危険に鈍感な人もいれば、敏感な人もいる。新しい未知の領域 Where no one has gone before. への冒険をするには最初は鈍感な人が望ましい。多く鈍感すぎる人は行った切りで帰ってこれなくなる。そうすると次はもう少し慎重な人が挑む。

 

次第に準備には何が必要か、どうすれば生きて帰れるかにしっかりとした知見が得られる。それを繰り返してゆけばそのうち観光客で賑わうようになるわけだ。

 

棋士は幸いに何度失敗しても帰ってこれるので、経験的に棋士は弱い所の怖さをよく知っているようだ。それを知った上で、こちらの弱い場所と相手の弱い場所と果たしてどっちがより弱いのか。また弱さだけではなく、それが勝負にどう絡んでくるのか。ぎりぎりで相手を仕留めようとするので怪我も絶えない。

 

しかもその見方が正しいと誰も保証などできない。見方が人によって違えば、では戦ってみましょうか、このまま進めてみましょうよ、という風に話が進む。戦局は何がなにやらわからない状況に入り込む。大抵の場合、どちらかが間違っていたなどなくて、両者が予想もしない新しい局面が誕生する。その連続の中で光明を探す。

 

許家元の解説を聞いて一遍にファンになった。何かしら好感が持てたようだ。棋譜を見ても何も分からないのだから、素人は解説を頼りにするしかない。幸い、プロ棋士の面白さは、棋譜解説の場でも様々な個性となって現れてくる。

 

勝ったからではない。負けたからでもない。様々な強い人が乱立している状態を望む。大昔のジャイアンツではあるまいに一強というものは好まない。強い人がいればいいというのは面白くない。勝率はよくはないけど、この人の試合はとにかく盛り上がるよ、という試合だって見たい。惜敗の感動も味わいたい。何をやってるか分からないけど地味に終わってしまう燻し銀だってなくちゃ駄目だろう。

 

人間が誕生して囲碁を打ち出し2000年と仮定する。毎日一人の人が3局、世界で平均して10000人が打っていたと仮定する。

 

すると2000*365*3*10000人で、21,900,000,000。人間が打ってきたのは219億局という事になる。

 

アルファ碁ゼロはわずか数日で490万局の対戦をしたそうである。コンピュータの登場が人間の様々な可能性を超える。オセロもチェスも破られた。将棋も囲碁も同様になった。それでもオセロもチェスも未だ廃れてはいない。

 

人間はコンピュータのこれらのアプローチを考えてコード化してきたけれど、コンピュータが自分自身でコードを書くようになるのは時間の問題であろう。自分自身の能力を自分自信で開拓できるようになれば指数関数的にコンピュータの能力は向上する。

 

一方の人間の基本スペックは20万年前に進化してからほとんどモデルチェンジしていない。どれほど優秀だったかという話でもあるが、周りを見回せば1億年程度は姿を変えていない生物はざらである。

 

コンピュータが遥かに凌駕したからといって囲碁の面白さが失われるとは思わない。面白い漫画は人間が描こうがコンピュータが描こうが変わらないはずだ。

 

すると、人間にとって面白さとは何か、という当たり前の問いが残る。それは当然だが、脳の中にある快楽物質みたいなものと強くリンクしているはずだ。面白いと感じる、笑いがこみ上げてくる、楽しいと感じる、そういう自己へのフィードバックを持っている理由は偶然にすぎないとしてもそれが失われなかったのには何らかの淘汰は働いたと考えるのが自然だ。

 

だが、たまたま使わないけど残った、または直接ではないが、副産物的な機能として残ってきただけかも知れない。

 

AIはまだこの面白く感じる機能は持っていないはずだ。もちろん、虫に感情などないと生物学者がいうのと同じくらいの愚かさでそう信じているに過ぎない気もする。彼らの回路の中に感情となる萌芽は既にあるのかも知れない。例えばそれは電子回路の微妙な温度変化のようなものとして。

 

どちらにしろ、この一勝を、この一敗を、この変化を歓迎する。