大逆転、芝野名人が初防衛 囲碁:朝日新聞デジタル

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不思議である。囲碁はよく分からないが面白いとは思う。この面白さの正体は、解説する人へ依存している。その人が驚けばこちらも驚き、その人が納得すればそうであろうと追随する。何のことはない、単に解説の人をトレースしているだけである。

 

勝負はどんなものであれ、それをやっている当人たちの究極の部分は観客には絶対に伝わらない。サッカーであれ、スケートであれ、体操であれ、ゴルフであれ、将棋であれ囲碁であれ、その最高峰の戦いにおける当人たちだけが感じる困難さに寄り添う術は想像しかない。

 

技術の先で数ミリ以下のほんの僅かな力の加減や時間を要求する場面がある。多く機械と呼ばれる事が誉め言葉である。その根底には既に人間では機械の正確性には勝てないという共通認識がある。

 

人間が勝てないのは機械だけではない。人間は人間にも勝てない。勝負の世界は非情で結果は厳然として残る。これがプロである。勝てないプロもいる。それでも面白いし応援もするのだから、決して最高峰でなければ面白くないという訳ではなさそうである。

 

三段には三段の碁があり、そこにはそれなりの面白さがある。はずである。しかし、その面白い碁を打つ人でさえ、強い人と当たれば勝てない。簡単に負けてしまう。簡単に負けるようでは流石に面白いとまでは言えない。

 

なぜあれだけ面白い囲碁を打っていた人が、こんなにも無様に負けてしまうのか。無惨である。負けても面白い碁はある。勝つから面白い訳ではない。負けても面白いはある。

 

名人も挑戦者もアジア大会ではさっぱりであった。勝敗だけで言えばさっぱりきっぱりである。無価値と呼んでもいいだろう。それでも戦いは面白いはずだと思う。

 

だが、勝負にはレベルがあるのは確かだと思う。中韓相手の日本のレベルは低いというのはレーティングからも明らかである。その比較として言えば、プロ野球の面白さとちびっこ野球の面白さは同じであるのか。大リーグと日本プロ野球の違いは同じなのか違うのか。Jリーグプレミアリーグはどうか。

 

レベルが違うよという言葉が面白さの質が違うよという意味に使われる事は頻繁である。観劇の楽しみはレベルとどう相関するのか。スポーツに限らない、ちびっこのお遊戯とブロードウェイの演劇を同じと見做す事は明らかにできない。邦画が無価値という感覚もレベルの違いで説明する場面が多い。

 

更には、同じ棋士でも不調と絶頂での調子の違い、3段の時と9段の時の円熟の違い、相手との相性での合う合わないの違い。老齢に近づいてからの違い。弱くても応援する場合もあるが、それは面白さの本質とは違う気もする。

 

残念ながら、こちらにはその違いを見分ける能力がない。名人が打てばふむふむと感心し、その辺の碁敵が打てばヘボと貶す。もちろん、アマチュアと言えども、棋道があり、棋理がある以上、名人と大きく変わるはずもない。だから四段くらいともなれば、その理解する所は名人とそう大きくは違うはずがない。

 

この余り変わらないが、たぶん地球と月くらいの差はある訳である。アマチュアといえど、段位持ちともなれば、大気圏くらいは抜けている。こちとら、せいぜい3F建てのビルの屋上から眺めている。

 

それでも面白いと思い、決定となる一打を打った時には感動したりもする。なぜ面白いと思うのか、勝ち負けではない。贔屓にしている側が勝てばいいという想いでもない。7戦まで行けと思っても負けてしまう。

 

そこに何を見ようとしているのか。不思議である。確かにいま時間が流れている、その共感を得たいと思っているのだろうか。

 

AIの評価値がもたらしたものは解説である。古い録画で解説を見ていると何かが物足りないと感じるようになった。有利不利を解説しているけれど、AIで見れば全く違う評価かも知れない。どちらを信用するか、AI一択である。これを疑う能力が自分にはない。

 

プロと言えどもその解説には疑心暗鬼しか生じない。本当にそうか、AIで答え合わせをしようという詰まらない感覚に落ち込んでいる。人類も終わりだ。

 

それでも人間の解説がなければ全く面白くないのは確かである。AIの評価値だけをみて面白いは有り得ない。AIの数値だけで面白いと感じられる人は相当その道に入り込んだ人だけだ。その程度の数では競技分野として成立しえない。

 

いつか名人戦が月で開催される日が来る。その時の名人が誰かは知らない。日本人であるかどうかも分からない。男性とも限らない。その頃にはAIは遥か遠くにあり、囲碁には興味がないかもしれない。

 

それでも人間同士が戦う以上、そこに始まりがあって、解説する人がおり、状況を見守るファンがいる。そこで勝つ事が重要なのか、試合を成立させるのは負ける側である。勝つ側ではない。勝利は偶然だが敗北は実力である。その舞台に上り詰めた実力がこの面白さを支えている。

 

面白さは負けの中にある。勝者の価値を決めるのは敗者である。最終的にミスをした方が負けるというような勝負では面白くない。双方が実力を出し切って、それでも決着がつく。それが偶発であろうが、魔の時間であろうが、数秒の遅れであろうが、負けた者を称えれるようでなければ面白くない。

 

記録よりも記憶とは内容の素晴らしさであろう。部外者は数字にしか興味がない、本当にその競技を応援する人は、記憶したいのである。ある場面を覚えておきたいのである。印象を残す、それが羅針盤のひとつだと思う。

 

我々はその中に物語を見たいのである。人間はそういう形でしか世界を理解できないから。これは人間と言うよりも脳の働きの癖である。