魔法少女が(連続殺人)鬼退治とは……? 名作昔話を完全凌辱してしまった「恐解釈 桃太郎」のトガりっぷりがまともじゃないレベル

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桃太郎は桃から生まれて三人の仲間と鬼退治する物語であり、このような古典の新解釈が幾度も作品を再生産してきた。これは膾炙が前提条件であって、これが基本形の強靭さである。

 

日本でさえ700年には既に作品があるので1300年、キリスト教圏なら2000年、ギルガメシュ叙事詩なら3000年、ラスコー洞窟の絵画を見れば、およそ二万年前には人類は既に物語を持っていたと想像できる。

 

つまり、リメイク、リビルド、リスタート、リニューアル、バージョンアップ、アレンジが人間の数だけ行われてきたと思ってよく、恐らく、殆どの手法は出尽くしていると言ってよかろう。

 

クラッシック音楽が何度もリバイバル(名演)されると共に、新しい指揮者や楽団が新しい演奏を日々の糧として紡ぎ足しているように、何度再演してもそれは新しい何かを生み出す。ライブが日々ファンを呼び込むのも同じだ。音楽だけを聞きたければ、CDを再生すればいい。

 

その時の空気というものがある。それは時代背景や作家の気分さえ取り込んだ一過性のものとして存在する。それが新しい作品を生み出す力という事になる。そこには新しい解釈さえ不要な時もある。

 

もちろん個性が異なれれば全く同じは未だあり得ず、例え双子と言えども完全一致は不可能である。フェルミ粒子は同じ場所には存在しえない。よってそれに構成される我々が完全に同じものにはなり得ない。立つ場所が違えば見る風景は異なる。

 

これが二大政党制の寄って立つ根拠であって、全く同じ政策、指向をしていても二大政党制が望ましい理由がここにある。選択可能なものが存在する事、これが力の均衡、独占独裁の抑制となる。民主主義に係る重要な事由であろう。

 

アレンジの方法には幾つかの代表的な手法がある。その代表例に永井豪の作品群は妥当であろう。鬼に対する新解釈は基本的には正義と悪の逆転であり、ザンボット3と同様な基本中の基本、現在のイスラエルハマス戦争でも重要な視点となって世界を席捲している。

 

視点の逆転は同じドキュメンタリでもカメラの位置が変われば全く異なる印象を受けるのと同じである。更に視点の転置はそれ以外の様々なものを自然に導出する。これはある意味では少数意見に耳を傾ける重要性とも繋がり、民主主義の根幹となる思想でもある。

 

従来の解釈を変えるとは、最終的には裏切りに通ず。裏切りには正義悪の大構造を転換する他に、特定のキャラクターだけを置き換える手法がある。敵だったものが味方になる。味方を敵に配置してみる。味方だと思っていたのに実は違っていた、契約ネコが代表的だろうか。いやユダがいるか。

 

アレンジには視点以外にも時間軸を変えるのがある。桃太郎ならばこれをSF世界に持ち込む。西遊記なら宇宙の舞台にするスタージンガーがある。これは基本の流れを乱さない所か、登場人物はそのままアレンジする方が却って望ましい。

 

ストーリーを拝借し、時代背景やメカニカル、風俗、風景、音楽等を描きなおす作業で作品に新しい風を注ぐ。例えば戦闘シーンとか、仲間の造形など局所を緻密に描く事で印象を変える事ができる。

 

カメラの視点を変えるのは語り部を変えるのと同様に作品の印象を変える。小説には主に、第三者目線、主人公の独白、バディの記録者、作家自身など分類がある。これは決定的な制約であるから、その視点が故に知りえない事が生じる。それを巧みに使えば、良く知られる作品の中にも新しいニュアンスや秘密を組み込める。

 

作品の背景はそのまま利用するが攻守逆転するパターンもある。桃太郎が守る側に立つ物語。ストーリーは大幅に変わるにしろ作品の世界像は同じである。

 

物語には世界像があり、それは登場人物、背景、ストーリーに分割できる。それぞれが独立しておりアレンジ対象可能である。

 

それぞれの部分には、逆転(倒置)、置換、消去、追加、時間の操作が考えられる。これらの対象と操作の組み合わせをランダムに組み合わせても、桃太郎には色々なアレンジが可能であるし、ランダムに課題を選び、その中から最も自分好みのアレンジを見つける事も可能だ。

 

これらは直積的な組み合わせに対して更にアレンジを加える作業であるから、ひとつの幹から生じるブランチの数は、結構爆発的に増加する。更に、操作には規模の属性がある。一人の新キャラを追加するのか、百万人(軍団)を追加するかでも大きく変えられる。

 

基本となるベースの作品がある。それは構造を持つので、対象と操作の組み合わせが見出せる。この構造から、対象をアレンジする事、操作をアレンジする事に大別できる。更にアレンジの規模が選択できる。

 

このように構造的変化を視点に作品の分析をすれば、どの部分が同じでどの部分が変化しているかが分かる。そして、作品の完成度という点では、これらの違いは全く関係しない。

 

作品が与える感動はまた完全に別の所にある。それはアレンジの巧みさに感嘆するのとは全く違う場所である。そこに作家性が注入されると考える。