坂本龍一さん訃報 海外でも追悼の動き 中国や韓国、米NYなどで惜しむ声

www.asahi.com

 

2023/04/04の天声人語にこんな言葉が紹介されていた。

オリジナルであるために勉強する

 

自分が思いついた事と似た事は既に先人がやっていると思って間違いない。オリジナルだと思う殆どは単に世界が狭いだけだろう。庵野秀明はだから自分にオリジナルはないと嘆息した。だから学び続ける必要がある。

 

「仕事(川村元気)」のインタビューでは次のように答えているそうだ。

オリジナリティのある仕事をするために勉強する。勉強するということは過去を知る事と同じ、過去の真似をしないために自分の独自のものを作りたいから勉強する。

 

白い紙に感じたままに絵を描くように創作することについて問われた時に

それは違うんじゃないかな

と答えたそうだ。

 

それで、俳句の凡人、才能あり、才能なしという評価を思い出した。著名な俳人ともなれば、新聞欄に選の依頼がくる。そこには毎週全国から送られきた数々の作品のうち、心に触れたものを選ぶ風景がある。

 

間違いなく、似かよった作品が沢山あるはずである。そういうものを凡と呼びたくなる気持ちも分からないではない。それ程まで多くの人が同じように感じる仕組みがある。如何に人間の感受性が共通しているかの証左でもある。

 

強靭な感性が如何に多くの人々の中に存在しているか。だから人間同士は初対面でも共感する事が可能となるのである。凡は人間の強みの証明である。

 

言葉により社会によりよくある季題に対して同じように感じる事が出来る。これを文化と呼ばず何と呼ぼう。人間は共感し相手の心理を読み合う事ができる。これらの作品は綺麗なガウス分布を示すであろう。

 

それでは困るのである。全ての入試で全員が同じ点数を取ったら、これは試験問題の敗北である。選ぶ側として同じモノ似かよったモノばかりでは選者の存在意味がない。それならば特定の個人の名前も必要とされない。紙飛行機を飛ばし、ダーツを投げ、それで選んでも同じだ。

 

そこで、発想を飛ばすとか展開を変えるとか、言葉のちょっとしたニュアンスで深みを加える事が要求される。そこに何か新しく見えるもの、組み合わせを加える。

 

それがこれまで世界に存在しなかった何かであればオリジナリティとなる。ならば組み合わせのひとつに過ぎず最終的には数学的な数値で表現できる。究極ある数値が0.05以下ならオリジナリティと定義される。それは違うんじゃないかという気もする。

 

如何に世界最高峰であれ贋作は贋作である。経済価値としては評価されない。例えそれがこれまでこの世界に存在しなかったとしても、完全な新作であっても、芸術的価値が高いとしても、贋作は贋作という評価である。

 

ここに経済の介入が見られる。これらの評価は経済活動としての意味付けになる。囲碁棋士が幾ら強くてもそれがAIのカンニングなら評価されないのと同じだ。

 

そこには作品こそがまさに自分自身であるという認識と、その作品を作り上げるまでの過程に自分の存在意義を入れ込むという価値観がある。過程が重要なら作品は単なる残渣に過ぎない。逆に結果が重要なら過程は問わないものもある。ただしルール違反は失格となり価値がない。例えばスポーツなど。

 

選手にとっては結果よりも過程の中にこそ価値が認められるのかも知れない。我々には知りえない、当人の中で経過した数秒の中に全てが宿っているのかも知れない。その時間こそが他の何にも変えがたいという気もする。

 

すると結果とは描いてみるまで何が生まれるかは分からない。作ってみるまではどうなるかは分からないという状況がある。この時、過程と結果は不可分なものとしての価値が与えられる。

 

その誕生の瞬間に立ち会えるのは作者ひとりである。そこに職業とも経済とも切り離された人間の姿がある。我々はその残りかすで経済的に生きているとも言えそうな気がする。

 

と同時にそういう社会の経済的な論理の中に組み込まれない限り、平凡である事の何が悪いという訳でもない。俳句のように文字数の少ない組み合わせなら、制約を二つ、三つ、四つと付け加えれば加えるほど、似たようなものが生まれる。

 

しかし、そこに歌人の気持ちが乗っているなら、それはそれで良い筈であるし、そこで全く同じ歌が生まれたとしても、それについてどうこう言う理由もない。そういう事もあるよね、という感慨で終わるだろう。そして、そのような歌は、恐らく過去にも誰かが歌ったであろうし、恐らく未来の誰かも歌う。

 

誰も作った事のない歌が目的なら、それでは納得できないだろう。似たような歌が存在する事が受け入れられないなら、誰も作った事のない歌を作らなければならない。そのためにはどうして似たものが生まれるのか、どうすれば似せないようにすればいいかは数学的に解かないといけない事になる。

 

アルゴリズムがあり、それによって可能かどうかが決定できるなら、似るか似ないかは技術の問題である。

 

人間の構造はほぼ同じであるから精神構造も類似している。その発達過程も似たような社会の中で似たような言語を通じて獲得されるので、その結果、生じる脳内の回路も大体は似かよったものになる。

 

我々の言語を互いに通じるのは、言語の音素、意味、文法などが共有できるからである。それを理解する構造が脳の中に備わっているからだ。つまり共有とは互いに似ているという意味である。

 

強固なまでに我々は類似する事で現在の立場を実現した。強靭な感性を備えるから集団を国家にまで拡張できた。元から我々は似るのが道理であって、そこから外れるのは誤差の範疇である。

 

この誤差の範囲に商品的価値を認める。それほどこの世界の組み合わせは人間の能力から見ればほぼ無限的である。だからオリジナリティと呼ばれるものが潜む事を可能とする。オリジナリティとは人間の能力の小ささが成立させている。

 

感性の大河が時代の変遷と共に流れている。万葉集の例を参照すれば僅か1200年程度では人間の感覚は大きく変わりそうにない。それ程迄に人間の感覚は本能的なレベルで備わっている、だから大きくは外れないと信じられる。

 

オリジナリティを突き詰めれば誰とも分かり合えないものにすればいい。そうすれば誰も真似る事ができないからだ。これを養老孟司は狂人と呼ぶ。だれとも分かり合えない感性では行き過ぎで、だれもが作れるようでは陳腐。その間のどこかにオリジナリティと呼ばれるものがある。

 

作品は生まれ、人々の間を流れてゆき、歴史の中で未来に残されてゆく。その多くは幾つもの風雪の中で積もってゆく。

 

自分の子供が書いた絵や習字は他の何物にも代えがたい。どの子が書いたものも唯一でありこの宇宙開闢以来、ひとつとして同じものはないはずだ。だが、家族以外は、子供の習字に特段の価値を置かないのが一般的だ。子供のオリジナリティは親からすれば他とは置き換え不可能である点で圧倒的な価値観である。

 

しかし、そこには厳然たる経済的に無価値とする力が働いている。ではオリジナリティと呼ばれるものは、どのような独自性が求められ、何を価値観とし、どうすれば職業的に成立しえるのかを説明する必要がある。

 

我々のオリジナリティとは経済的理由と密接に関係する。それを言い換えるなら、経済的に食べて行ける場合にそれをオリジナリティと呼ぶ、で十分な気がする。よって歴史的に残ってゆくとは、長く経済的な利益を生み出すという意味しか持たない。

 

誰もがくちずさみ、歌詞は忘れてもメロディは覚えているような音楽の世界にあって、残ってゆくものは決して経済的理由に基づくものではない。音楽は残る、例え名が消えようと。誰かがくちずさむ時、それは歌である。そこにオリジナリティは恐らく必要ない。

 

オリジナリティとは経済的価値である。職業を目指す人は、自分の価値を売り込まないといけない。その時に自分が選択されるには唯一無二である必要がある。同じなら他と置き換えられる。その不安と戦うから置き換え不能を目指したいとなる。

 

それを一言でいうなら経済的活動の中で生き残ってゆくためにはオリジナリティと呼ばれる必要がある。よって経済的価値観としてのオリジナリティは請求書に記載する一項目であって、作品の説明に書かれるようなものではない。

 

その道に進むものは誰もが技術と知識で圧倒するのが最も簡単である。だからそれに対抗するにはオリジナリティという武具が必要だった。