年齢とキャリアを重ねても…「自分に向き合うことを恐れない」【長澤まさみ】

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『「面白い作品を作る」という夢を実現する』なら優れた脚本家と出会うしかないように思われる。または育てるか。

 

稀代の天才はそりゃ自然発生に託すしかないが、優れた人が全て天才という訳ではない事は杜甫李白の例を待つ迄もない。もちろん両方とも天才と呼ぶにやぶさかではない。

 

だが天才と呼んだり才能と呼ぶ時点で思考停止しているのである。才能に溢れる天才が簡単に枯れる事もある。どうしようもない愚鈍が積み重ねた先に頂きに向かう姿も見てきた。優れた才能が更に努力を重ね精進し、それを後塵が追いかける。

 

何百の成功の何千倍もの挫折と断念の中で誰もが生きているのである。俳優はそういう人たちを演じる必要がある。架空の爆発的な魅力を新たに吹き込みつつ。

 

人は何事も思い通りにはゆかない。だから、優れた脚本家がまた生まれるのである。どうしても言いたい事があるんだ。それを物語という形を取って表現したいんだ。

 

だが物語を作る者に常に挫折が必要だったり人生経験の豊富さがいるかと問えば否であろう。確かに詩人には若くしてなれる、しかし優れた小説には人生の円熟味みたいなものが必要だ、とランボーの翻訳者が語っていた記憶はある。

 

それでも、優れた人の心を打つ作品の80%は歴史が後押しをしているのである。膨大な人間の活動を背景にするから作品は成立しうる。我々はたかが歴史の重みという推進剤の先に自分のオリジナリティを少しだけ載せて打ち上げるだけなのである。世界の拡大とともに我々の作品が希薄してゆくのは仕方がない。

 

それでも彼、彼女たちから面白い演劇論を聞いた事がないのが不思議だ。存在感だの感情だといつもの情緒に頼った日本的な方法論ばかりである。感情は言語化できにくい、まはた言語化したら陳腐なので、表現は多様化するともいえる。故に感情は演劇論にはなじみにくい。

 

そこでまるでわかった風に駄目だしを繰り返して疲れてきた頃にOKを出すのがよい演出だともてはやされたりする。本人だって違いなどわかっちゃいないのである。単に信頼を得たというだけの処世術に過ぎない。疲れた表情は常に色っぽいくらいの意味しかない。

 

陳腐にも言語化を放棄した演出家が優れた脚本を書けるはずがないのである。だから作品はどれも色恋沙汰ばかり。幾ら世界有数の名作とはいえ源氏物語をそこまで真似る必要はない。

 

例えば満島ひかりという俳優、彼女は眉を動かしたり、瞼をぴくぴくさせる手法を使うのが魅力的である。テレビCMは思わず見てしまう魅力にあふれる女性である。それでも、恐らくアメリカのドラマを見ている人にとっては今更?という感想しか湧かない。

 

魅力は彼女の演技にあるのではない。それをうまくまとめたパッケージング力である。だが、その方式はどうしても丸まってしまう。調度トヨタのデザインの様に。

 

なぜ日本の優れた人はどれもこれも海外からの輸入ディーラーでしかありえないのか。知の巨人と持て囃される立花隆でさえその本質は翻訳家であり海外からの輸入業者なのである。オリジナリティは殆どない。

 

明治以降、我々の多くの知は輸入であった。もっと言うなら飛鳥時代以降も輸入であった。輸入してから日本独自の発展を遂げる。そのために鎖国を必要とした。それは江戸時代にひとつの結実をしたと言ってよい。だから西洋思想の輸入が迅速に可能であった。中国文化の輸入という経験があったから。

 

だから最初にそれを行ったその一人である聖徳太子は今も偉いとされるのであるし、西洋の思想との間で悩み、問い、作品を紡いだ夏目漱石の問題意識は今も残っているのである。我々はいま第三の輸入時代にある。それはコンピュータの答えを人間の答えの中に取り込む戦いである。

 

AIが示すものはそういう意味であるから、そこから貪欲に輸入できた者だけが生き残る事ができる。例えそれが僅か数十年だとしても。発展するAIが自己改修を試みた時、その進化がどのように人間にフィードバックするかは不明だ。竜の卵かよって感じだ。

 

変わらない為に変わらなければならないと春木屋がいう。その通りだろう、そして変わっても消えてゆくものもあれば、変わらないのに残ってゆくものもある。変わるものは動的。変わらないものは静的。時という河はどちらも差別などしない。だた人は老いてゆく。長澤まさみも間違いなくその一人だ。

 

本が来た時点では遅い。そう考えるならプロデューサーになる。アメリカの俳優はだいたいがそういう道を歩む。どんな俳優だってこの役はやりたいという脚本を持っているものである。そういうものを持っている人は、恐らく話は広がりを見せる。

 

インタビュアーの巧さと彼女の頭の良さが良い形で面白い話に展開している感じがいい。それがそう見せる手腕だけの装飾として発達したのか、それとも日々向き合いながら演劇について常に考えているものが表出したものなのか。

 

彼女の変遷は日本演劇を語る上で中心のひとつを占める。それ以外の俳優たちが枝葉に見えてしまう位に。新垣結衣はもうじき消える。石原さとみは重要なライバルとして今も輝いている。綾瀬はるかはどうだろう?

 

彼女たちが登る山はますます険しくなってくる。俳優としてどのような道を究めるのかを問う事は本当に演じたいのかと問う事に等しい。

 

テリュース、あなたはもう大丈夫ね!

 

そしてウクライナとロシアの空を見る人たちにはこの言葉を。


パティ、この空を君に見せたい。