「ルパン三世 カリオストロの城」クラリスはその後どうなった? 宮崎駿監督が語る裏設定 金曜ロードショーの豆知識に注目集まる

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宮崎駿作品は、どれも読後に言葉を失う。ここがとても不思議でハウルの動く城も未だに何と呼べばいいのか分からない感情がある。千と千尋の神隠しも面白いのは確かだが、何を見たのかを言葉に出来ないでいる。社会性が高そうなナウシカ風立ちぬでさえ語る言葉が見つからない。

 

こんなに面白いのに、もしかしてテーマは皆無なのだろうかと怪訝とするが、どうもそんな事は有り得ない。上映後に感じる気概がそれを否定する。するとこの動き続けた映像たちの正体は何であるか、という不思議さと対面する。

 

優れた作品は言葉を失わせる、もし饒舌になっているとしたら何かに追いやられているだけで何も語っていないに等しいのだ、という気もしないではない。という事でそれを言語化しようとする試みが恐らく作品を見るという行為だと思う。

 

宮崎駿の作品の特徴的な描写に重力がある。上から下に落ちてゆく力と人間との間での描写。崖を登ってゆくフィアット、塔から塔へと飛ぶ人物、墜落するオートジャイロ。一種滑稽な嘘のような姿の中に物理学的には嘘はついていない、少なくとも本当らしさがある。

 

祟り神に櫓の上から下に向かって矢を放つ姿に威力が増す感じがする。空中分解する試作機が重力の加速に抗えない感じがする。所が押井守が語ったようにラナはとても軽いしビルの上から飛び降りもする。不思議と登場人物たちに質量が感じられない。それは式神が風にのって飛ぶ風景とよく似合う。

 

質量がないから空を飛ぶのに支障はない。所が装甲の厚みは強く王蟲の抜け殻からも、バカガラスの内壁を破壊して外に飛び出す描写からも、ジョドーたちのアーマーにも厳然とある。マグナムが効かねえぞ。

 

重さは風によって描く。ギガントの翼を走る姿にリアリティがあるのは、風に流される感じに依る。重さの描写ではない。その物理学の在り方に説得力を感じ、面白さを感じる。

 

音は振動であって、振動するものがシンクロするのは、ホイヘンスの発見の通り、自然現象である。振動がシンクロして同じになる方が僅かながらにエネルギー効率が良いのだろう。真相は知らない。

 

所が同期するのに、相手の反応を見てから真似するのでは遅延が発生する。よって前もってこの時刻というのが予想されなければならない。想定された時刻にある地点で衝突する事。そのためには後の先では間に合わない(誤差の範囲次第であるが)。

 

同期するために必要なのがリズムだとすれば、ハーモニー(和音)は背景の描写に当たる。それは生理学に基づく脳の情報処理と結びついている。これにメロディが加わり三次元的な構成要素を形づくる。

 

久石譲によれば「ハーモニは空間軸方向の表現、リズムは時間軸方向の表現、メロディは記憶回路」でそれらを取り出す仕組みであるそうだ。

 

これを映画の要素と結びつけるならば、ハーモニーは映画の動静と連結する。激しく動いている場合と静かに動いている場合、それは生死と関連付けても良い。車のパンクは動、空を見上げるは静、2CVの音がするは動、とこの繰り返しで映画が続く。

 

リズムは一般的には心臓の鼓動だから、映像が作り上げる緊張と緩和になる。危機と脱出の繰り返しになる。気絶したお姫様を車から救う、崖を落ちる、木から落ちて気絶する、それらは作品の中での転換点になる。この先はどうなるのであろう、という観客の気分にリンクさせる。

 

これで映画の動静と緊張緩和は4つの組み合わせを生んだ。
静:緊張(決意)
動:緊張(事件の発生)
動:緩和(脱出)
静:緩和(結果)

 

この繰り返しの中にストーリーを重ねる。つまりメロディである。すると宮崎駿の映画を見ている時間の殆どで浴びるようにリズムとハーモニーを追っかけている訳で、メロディが主題というのは錯覚であるか。印象としては控えめにいってメロディに主題は感じられない。

 

あれだけメッセージ性が強いと感じるにも係わらず、映画のメッセージを具体的な言葉に置き換えられない。この不思議さが拭えない。カリオストロの城は優れた伏線と回収にひとつの円環を感じる。全て繋がったよという驚愕がある。湖の水を泥棒は確かに飲み干した。

 

だが、良く考えればそれは凄さではあるが、メッセージとは何も関係ない。その技巧に感動するとはどういう事か。どうも解せない。構造の面白さは知っているが、その正体にメッセージ性がないとしたら、ここに描かれて展開し転調していったものは何であるのか。自分は何に感動したのか。

 

数学者は数式の中に感動を得るそうである。思いもしなかった性質に、つまりは自分の中にある偏見に驚愕するそうである。テーマは何であるのか、それは社会とどうコミットメントするものであるのか。そういうものとは別の所にある感動とは何か。

 

カリオストロの城には当然だが(製作者たちや支持者たちの意気込みは別にして)、世界を変える哲学はない。少なくとも作品のどのシーンを切り開いてもそういうものは見つからない。極めて強固な価値観はあるが、それが無力である事は映画の終盤に描いて見せている。

 

世界に向けてこうしようととかこうしなければまずいよというテーマはない。仕方ないなあと個々人がが動いた姿だけがある。しかし、彼の映画に関する話を追い駆けると明らかなテーマ性とか、作品の種としてのメッセージ性が企画書の中には明記されているのである。

 

その根本に子供たちの生きる力、みたいな所があって、どの映画であっても企画書には意図がずらずらと書かれ誰に向けて何を言いたいのか、誰の為に作るのか、という題目がある。そうしなければ予算が取れないという話はあるにせよ、メッセージだけならその企画書の文章を滔々と読めば十分であって、それが映画の姿をする必要性はない。そして劇場で完全変態の昆虫くらいに変わり果てた姿をあたりにする事になる。

 

という事は通奏低音としての何かはあるが、それはもしかしたら聞こえない音なのかも知れない。するとこの作品の面白さは、相当に転調している、それを基に戻せば何かが取り出せるかも知れないが、果たしてその行為は無意味ではないか。コカ・コーラの原料を求めたり、KFCの香辛料の秘密を暴くのとそう変わらない。それを知る事は感動となるかどうか、という話になる。

 

すると、この感動は、ここから更に別の転調をしなさいという強制なのかも知れない。つまり、僕が言いたい事は何もないよ。作る過程で何を考えたかかはもう暖炉で焼いてしまったよ、それは足場だからもう解体しているよ、という主張でしかない、これだけが彼のメッセージ性の正体であって、後は映画を見てそれで十分。

 

この映画から受け取ったものをどう考えるか。音楽と同じと見做すならば、ここには新しい知識はない、啓蒙もない。映画には戦争を終わらせる力はない。社会を変える力もない。なぜならその為には社会の構造を変える必要があり、その為には状況を理解する必要があり、力点を見つけ出しうまく作用させなければならない。

 

世の中にある様々な余りに人間的な活動の多くに社会を変える力はない。将棋も囲碁もスポーツ競技も格闘技も音楽も漫画も小説も哲学も教科書もテスト勉強も資格試験にも、戦争を終わらせる力はない。言葉を使う小説や演劇は戦争反対の渦を作り出す事はある。だがその程度で戦争が終わる事はない。

 

つまり、その作用が常に効果を発揮するとまでは言えない。アンクルトムは黒人奴隷の解放に多くの賛同者を生み出したかが、この小説に問題を解決する力はなかった。その証拠に今もアメリカでは黒人差別(他人種も含む)が歴然とある。多くの人が眉をひそめているのにも係わらずにである。

 

バカげた戦争を止めましょうと呼びかけて戦争が終わった試しはない。戦争が終わるには厳然たる手続きがいる。その手続きにどう当事者たちをのせていくかという作用と反作用の問題があり、その背景には様々な歴史文化科学が横たわりその先端に人々の感情がある。当事者たちの感情だけで戦争が終わるはずもない。必ず利潤を必要とする。そこに何らかの交換が発生しない限り問題は終わらない。

 

それは映画を作る時に自分たちもさんざんやった事だよ。鑑賞がその再現にはなりえる。だが、そこで起きた事は余りにも面白いはずもないだろう。軋轢があり対話があり脅迫があり絶望があり希望があるというごく普通の企業活動があっただけの事である。そこからなぜこのような素晴らしいものが生み出てくるのか。なにひとつ、社会の変革と結びつく訳ではない。テーマもメッセージもない。なにひとつ、社会を変える力はない。戦争を終わらせる力などない。

 

かつて、パレスチナイスラエルの人々はイデオンを見るべきだと思った。地球へを見るべきだと思った。火の鳥を読むべきだと思った。それでも変わらないのなら、この地上から消えても仕方がないと思った。だが、今はそう思わない。何を見た所でどう感情が揺さぶられようと問題は解決しないはずである。彼らは聖書を読んでいるのである。他にどんな作品が必要というのか。

 

その無力の中で何かを生み出し続けているという事の意味が色となり音となり声となるのが映画なのだろう。よって映画は自分の無力さを塗りたくったものではない。そんな事のために何も作れない。創作の力は信じている筈である。それは何だというのだろうか。

 

感情を揺さぶられなければ何も始まらないのなら絶望である。大人でそうならもう才能がない。だが子供たちにはそういう体験が必要なはずだろう。ならばこの作品もまた真の鑑賞者たちは子供でなければならない。まずはそういう仮説にしておく。