やっぱり造型に賛否両論『シン・ゴジラ』、小さい手はティラノサウルスリスペクト?

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ターンAを見て以来、止まっている絵はダサかっこ悪くても、動けばキュートでカッコよくなる事がある、って事を知ってから止め絵で映画を判断する事は止めた。

 

それでも予告編を見ている限り、石原さとみがいただけない。なんだ、あのリアリティの損失は。どういう役柄かは知らないが、革ジャンってなんだ、革ジャンって。ゴジラ退治に重要な役割を担っているんだろう。科学者か、それとも戦術家か?サイトによれば米国エージェントとある。アメリカもずいぶんと若いのを寄越したな。

 

現代の日本で20代で他を差し置いて政府から声がかかるなどあり得ない話である。そのようなチャレンジなどしないし、人材を探す手順からしても、まず大学などに声をかけてからが通常である。

 

指揮を執る政務官っぽい人も三十代である。

 

どうして彼らが若いのか、ここに徹底的なリアリティを込められないのなら、作品としてはカスと言ってよかろう。

 

実務がそうであっても、上との根回しや下とのやり取りを考えれば、ちょっと30代で総括は考えにくい。元来日本で若い人が活躍するのは政府(幕府)がひっくり返る時と相場が決まっているのである。

 

だからゴジラの予告編で一番ぐっとくるシーンが擁壁された所が地滑りを起こすシーンであったりするわけだ。

 

でっかい会議場のシーンなど理路整然としていて、お前ら現場を知らないだろう感が丸出しである。あれでOKを出せる監督のリアリティがまず信用できない。

 

この予告編でいい雰囲気のある絵もある。それは戦いで街中が破壊された中に、ゴジラが動かずゆっくりとしっぽを揺らしている。夕焼けである。

 

自衛隊も休止をとって食事をしたり、部隊を再編制している。これから夜をむかえようとしている。夜間攻撃はあるのか、ないのか、悩んでいる幹部がいる。

 

避難民でごったがえす難民キャンプ場、そこで食事の世話をする人々、次々と罹災者が運ばれる病院でパンをかじりながら治療に従事している医者、看護師たち。

 

報道機関はその夕暮れに染まるゴジラの姿を映し出している。

 

その時、音がしてくる。

「おい、何の音だ。」

 

「わからない、どこから聞こえてくるんだ?」

 

ゴジラだ、ゴジラが歌っていやがある。」

 

しばしそれに耳を傾ける自衛隊たち。

 

そこにあるのは、束の間の静寂であった…

 

みたいなシーン、あれはいいイメージだ。もちろん、作品にはそういうシーンはない。恐らく、石原さとみの¥えっ、どこの女王様、みたいな演技に気持を持っていかれるはずだ。

 

シン・ゴジラのサイトでの庵野秀明のメッセージにはぐっとくるものがあった。彼はまだ満身創痍で立っていたのかと。命を削るように今も作品と取り組んでいたのかと、そこに一種の感動を味わった。

 

shin-godzilla.jp

 

以下、コメント(shin-godzilla.jp/comment/)。

我々は、何を作ろうとしているのか。
そして何故、空想特撮映画を作る事を決めたのか。

2012年12月。エヴァ:Qの公開後、僕は壊れました。
所謂、鬱状態となりました。
6年間、自分の魂を削って再びエヴァを作っていた事への、当然の報いでした。

明けた2013年。その一年間は精神的な負の波が何度も揺れ戻してくる年でした。自分が代表を務め、自分が作品を背負っているスタジオにただの1度も近づく事が出来ませんでした。

2014年初頭。ようやくスタジオに戻る事が出来ました。それから、1年以上かけた心のリハビリにより徐々にアニメの仕事に戻っています。

そして、2015年。旧エヴァの放送から20年後の今、すでに2年以上もお待たせしている、シン・エヴァンゲリオン劇場版の完成への実現に向けた作業も、なんとか進められています。

僕の周囲の方々、そしてアニメファンの皆様が、再び完結に向かうというモチベーションを支えてくれているからです。本当に、感謝します。

と、同時に今は、空想特撮映画を形にする作業も行っています。
始まりは、2013年1月末でした。

東宝の方から直接「ゴジラの新作映画の監督をお願いしたい」と、依頼を受けました。
精神的にも不安定でしたし、「無理です。エヴァもあるし、出来ませんよ」と、その場は固辞しました。
が、東宝の誠意と盟友樋口真嗣監督の熱意に心が動かされ、
同年3月、監督を引き受ける事にしました。

過去の継続等だけでなく空想科学映像再生の祈り、特撮博物館に込めた願い、思想を具現化してこそ先達の制作者や過去作品への恩返しであり、その意思と責任の完結である、という想いに至り、引き受ける事にしました。

今しか出来ない、今だから出来る、新たな、一度きりの挑戦と思い、引き受ける事にしました。
エヴァではない、新たな作品を自分に取り入れないと先に続かない状態を実感し、引き受ける事にしました。

同年5月、作品として描きたい、描くべき主題を決めました。
そして同年6月、G作品メモという企画書を東宝に提出、プロット等の作成を開始。

ゴジラが存在する空想科学の世界は、夢や願望だけでなく現実のカリカチュア、風刺や鏡像でもあります。現在の日本でそれを描くという無謀な試みでもあります。
正直、世界資本に比べると制作費も制作時間も極端に少ない日本の現場で、様々な内容面に関する制約の中で、果たしてどこまで描けるのかはわかりません。

ただ、映画としてのプライドを持ち、少しでも面白い映像作品となる様に、本作もシン・エヴァも全力で作っていく事が、今の僕に出来る事だと思って作業を進め、映画の方向性や脚本内容等で紆余曲折あり、現在に至っています。

制作者が何を書いても言い訳にしか過ぎず、善意と悪意の前に晒される事態を重々承知の上で、こんな時代のこの国で日本を代表する空想特撮作品を背負って作る、という事を少しでも理解していただけたらという願いから、拙文を寄せています。

最後に、自分を支えてくれる周囲の人々と、作品を支えてくれているファン・観客の皆様の御蔭で再び、映像が作れる、という事に改めて感謝します。

ありがとうございます。 

 

なんだろうゴジラの主題って。。それは気になる。映画よりも企画書の方がすごく気になる。

 

予告編を見る限り、それは東日本大震災のように見える。少なくともこの映画の中にあの時に見たシーンの再現があちこちにある。しかし、それはゴジラの本質とは言えないと思える。

 

津波原子力発電所の擬人化としてのゴジラでは意味がない。またそのような天災、人災と向き合う人間の力にも意味はなかろう。あの地震も事故もまだ人間が立ち向かえる程度の雑魚キャラである。

 

ではゴジラの中になにを見出そうとするのか。もちろん、それは庵野秀明の本来の仕事ではあるまい。彼が本当に撮りたいものは作品のテーマ、主題ではなく、子供のころに感じたあのワクワクであろうから。

 

エヴァンゲリオンという作品は矛盾の中に矛盾でないものを見つけるる旅と同じだから、正面から向き合えば、オバーヒートせずにはいられなかったのだろう。しかし、作品の魅力とは、その矛盾にほかならず、矛盾が矛盾でなくなった時に、作品はその命数を使い果たす。

 

ではエヴァンゲリオンの矛盾とは何か、と言えば、これはなかなかに難しいのであるし、またここで語るべきではないだろう。