シンジは?結末はどうなる!? “わたしの「エヴァ」考察&予想”をご紹介!

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■Q2.【使徒エヴァにまつわる考察】
綾波がシンジの母、碇ユイのクローンであるように、真希波マリはアスカの母のクローン。ゲンドウがリリンの王であるなら、シンジはリリンの王子。アスカは姫と呼ばれているので、シンジとアスカが結ばれる可能性。
●シンジが紫の瞳になっていたので、赤(レイ・カヲル)と青(アスカ)もあり得る。

●『:Q』で、カヲルがないはずの第13番目の使徒になったことで、「アダムスの器」である13号機が第11番目の使徒碇シンジの操縦する初号機が第1使徒になる。

 

■Q3.【ストーリーの展開や結末にまつわる考察】
●『:破』で、シンジは目が赤色になったが、新エヴァでは紫になっているので青色の何かがシンジと融合する。
エヴァンゲリオンという物語は、主(神)であるカヲルがシンジを最後の神の子にするために何度も世界をリビルドし続ける物語。でも神の子になったシンジに説得されてカヲルが神をやめて人間として生きることでリビルドできなくなり、天寿を全うするエンド。
●タイトルにある「3.0+1.0」は、「3.0」で新劇と旧劇を終わらし、「1.0」で新しいエヴァが始まる。
●TV版+旧劇のシンジがサードを引き起こし、ガフの扉を開いて別時空(『:序』『:破』)に、そして『:破』にて再びガフの扉を開いてもとの世界に。それが14年の眠りから覚めた旧劇とかの続き、つまり現実世界。よって『シン・エヴァ』は『:Q』の続き、TV+旧劇+Qの最終。
●他人を理由にして戦ってきたシンジが、自分の為に自分の責任で戦う決断をする。都合の良い現実逃避(カヲル)からの決別が描かれる。
●本予告で出てきた女の子はアスカとシンジの子供。エヴァは親子の物語なので、ゲンドウがシンジにしたように、シンジが父となり次世代の子供に「S-DAT(音楽プレイヤー)」を渡して終わる。

 

■Q4.【過去作品との関係性にまつわる考察】
エヴァ『:序』の月のシーンで月に血が付着しているが「まごころを君に」の最後に巨大綾波の血しぶきが月に付着しているのと一致。
●プラグスーツの色や立ち位置を見ると、カヲルが死んだ時の位置が予告の真希波・マリ・イラストリアスと同じ位置だったので、マリは死ぬのではないか。
●旧劇が現実、新劇はシンジの理想と夢の世界。しかし『:破』でその世界が「破れ」た。旧劇で補完されなかった惣流アスカ、カヲルがシンジを現実世界(旧劇)に連れ戻そうとする物語。

 

■Q5.【その他】
●(世界を再生産する)リビルド理論は、TV版のカヲル登場シーンの朽ち果てた石像が量産機の形であったりと、鱗片はその頃から存在する。 

 

中世の西洋絵画を鑑賞する時に、描かれている対象が持っている裏の意味、象徴から読み解く手法がある。すると急に絵画が雄弁に語り始め、象徴シンボルの配置も意味を読み解く。少なくとも絵画の解釈にそれは可能だし、画家もそれを知れば意識的に入れ込むようになるだろうからシンボル解釈はスパイラル的に上昇してゆく。

 

極端に言えばこの世の全てはシンボルであるが、これは絵画に描かれているものが、最終的には何ら意味を持たない視覚に過ぎないからである。意味を持たないものに意味を与える事は、人間が世界に働きかける本能的なものだ。視覚がもたらす意味は余りに大きい。人は一瞬でも見たものは忘れる事ができない。

 

「ヒトの目、驚異の進化 視覚革命が文明を生んだ - マーク・チャンギジー」によれば肌の色は、我々が色として認識するのとは実は違っている。視覚が取り込んでいる情報に肌の色ではない。だけど人間はその最大の重要事は意識せずに(意識しなくても認識できるように進化したため)、色の違いを意識に上らせ、結果、世界史は西洋人による残虐な行為の羅列になってしまった。

 

我々が目にしているものは、この世界の写実ではない。脳による編集後の世界だ。本当の世界は編集前にあるという考え方も可能だが、脳はそれを許さない。そんな事をすれば進化の過程で生き延びる事が出来なかったからだ。

 

犯罪行為の目撃情報が簡単に別の記憶で上書きされる事も著名な事例で、赤い服を着た人を見たと証言しているのに監視カメラで確認すると赤い服は映っていないなどよくある話だ。

 

視覚に人間はそれまでの記憶を投射してひとつの世界像として把握する。なぜそれが必要かと言えば、森の中でジャガーと出会った時に瞬時に行動しなければならないからだ。見て、考えて、決めて、判断するようでは牙は喉元に食らいついた後だ。

 

エヴァンゲリオンの特徴の一つは、これほど様々に埋め込まれた事象に鑑賞者が様々なシンボルを与えられる点だろう。色の意味は解釈の重要な手がかりである。場所や描かれたもの、出現順序もそうである。キャラクターは何かのシンボルとして存在する。それが世界を読み解く手掛かりになる。

 

アニメーションは実写と異なるので、偶然に映り込むはありえない。全て意識して描かれたものである。この信用がシンボル解釈を支えている。そして、解釈が成り立つのは、制作者と鑑賞者が同時代に生きており、ほぼ同じシンボルを共有しているはずだという前提であろう。

 

仮に製作者が偶然書き込んだものであっても、それに誰かが解釈を与えると無視できなくなる。この繰り返しで、作品が深い読み方を与えている。

 

すると、重要な事は謎解きではないのである。西洋絵画の多くが、解釈の正解を残していない。だから今でも多くの美術評論家を生み出せるのである。

 

多くの観客がこれまでの作品では謎解きになっていないと不満をもらした。謎解きになっていない、これは答えになっていない。だから、この作品はここまで生きながらえた。答えをもらえないとすっきりしないという日本人らしい隷属的な性格も関係しているのだろうか。

 

もしエヴァンゲリオンの最終話が答え合わせの時間だと思っているなら、これは製作者にとっても辛いはずである。庵野秀明だって答えをもっているはずがない。既に彼をして解釈者のひとりである。特別な観客のひとりである。ただ彼だけが、次の作品を世に問う資格を持っている、権利を持っている、または、そのためにエヴァに選ばれている。

 

それ以外の誰もそれができない。少なくともこの作品までは。一体エヴァとはどういう現象だったのか、それを見つけようとみんなが彷徨っている。その中の一人に庵野秀明もいる。それを呪いと呼ぶ人もいる。

 

ミステリーは作家と読者の知恵比べみたいな所があって、如何に裏切られるかという点でカタストロフィの構造を潜めている。すっきりするには上手く騙されなければならない。綺麗に裏切られ、しかも納得されなければならない。

 

一方で人々にトラウマを残し、映画館を出たら一言も言う気にもなれず、喫茶店を探して、コーヒーを頼み、ただ沈思黙考する時間が必要な映画もある。自分は何を経験したのだ、という感慨だけが確かなものとして残る。喫茶店で輝く電灯の明かりをぼんやりと眺めている時間だけが、確かなものとして感じられる。コップを置くかちゃとした音に戻ってくる。この世界とは一体何なのか。

 

いずれも否定できないが作品の説得力である。説得される事で、その作品は生き抜く事ができる。人々が望むのはエヴァという世界観がこれかも続くためのフレームワークとして可能なのか、それとも幻想のようにここで途切れてしまうのか。実在論の世界への挑戦であろうか。

 

ガンダムが数多の作品を生み出すフレームワークとなったように、エヴァという世界も続くものであって欲しい。その為には、ひとつの区切りが欲しい。そう感じるのだとしたら、このもやもやもは原初のキリスト教徒が味わった気持ちかも知れない。

 

使徒たちは多くの福音書を残したが、何千年も何度も何度も読み込まれてきた間に、多くの解釈もあったはずだし、否定もあったはずだし、改定もされてきた。死海文書のように、打ち捨てられたものもある。

 

多くの作品が生まれる源流となり、大河のような文明を開いてきた。幾つもの美しさも唾棄すべき愚かさもすべてこの河川の中に浮かんでいる。

 

何かに惹かれる、そして忘れる事のできない、だから生きながら考える。この作品の根底にあるキリスト的なもの、それが単なる便利な装飾に過ぎないとしても、そのキリスト的なものが現代によみがえろうとする過程でエヴァという作品の力は、案外キリスト的なものの、復活的な何か、に説得されたいというこの世界に溢れる無意識的な帰依希求を満たそうとしたものではないか。

 

いや、それは違うだろう。そんな大袈裟なものを感じてこの作品にのめり込んだのではない。ただ、エバンゲリオンという作品の中にあった破綻に惜しみない拍手を送りたかっただけではないか。アンコールを要求したらしょぼかったので、コンサートをやりなおせと要求しただけではないか。

 

信じるにたるもの、根底にあるものを如何に裏切るか、または突き放すか、それがこの作品の最後を飾るに相応しいと思う。トラウマのひとつも残さなくて、どうして歴史を刻めるだろう。