東京都で新たに102人が感染 新型コロナウイルス

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このウィルスが消える事はもう不可能だと考える。それは、毎年、毎年、流行するという話だ。それは普通の風邪と同じという事である。

 

今となれば感染力が強く、死亡率も低くない風邪であった。少なくとも普通の風邪と同様には扱えなかった。インフルエンザと同様の警戒がしなければならない。もちろん、インフルエンザでさえ、毎年の流行によって死亡率は変動する。強毒型があったり弱毒型があったり、ウィルスはトヨタよりも頻繁にモデルチェンジするのである。

 

そういう状況で封じ込めはもう不可能であるから、これはゾンビに例える方がいい。ゾンビが発生した最初は全部を駆逐しようと動く。だが、発生率>駆逐率になれば、駆除する事は不可能である。それ以上増えないよう封じ込めるのも難しい。すると人間の側が隔離されるしかない。

 

だが、世界をゾンビの好きにさせるという事は、経済的にも文化的にも人間の側が衰退するという意味である。衰退するとは最終的には人口が減るという話である。これが野生動物なら、居住場所や個体の運不運などで増減が変わる。それは淘汰として働き疫病に強い個体が残る。そういう進化的振る舞いをする。

 

所が人間は各個体毎で疫病と向き合うのは難しく、先進国は国家単位で戦略を練る事になる。これは弱い個体に合わせた施策を考えるという事であって、中国が経済的指標として掲げた先富論(先に豊かになれる者たちが富み、他の者はその後に続く)とは異なる。

 

幸いに、今回の疫病は世代毎のリスクが異なり、若い世代のリスクが低い。これが逆なら絶望的であったが、若い世代のリスクが低いという事は、若者を中心に社会を組み替えれば、経済的にも文化的にも縮退させる必要が小さくて済むという話である。

 

もちろんこれはこの疫病が若者たちの生殖能力に影響を与えていない事が前提である。いや与えても良いが、それはエクスティンクトではなく、進化オリエントでなければ困る。

 

社会の組み換えをするには、どしても政策的施策が必要であるから、現在の短期的混乱の後には、長期的対応に基づいた社会構築が必要になる。それは個々でどうにかできるものではない。だが全体主義で全員を一律に御せばよいという話でもない。もっときめ細やかで個々の状況に応じた対応が出来なければ失敗する。それをどうすれば生み出せるか。

 

世界中がこの疫病と向き合っているという事は世界中の国家の数だけ様々な取り組みがなされているという意味である。どれが成功するかは誰にも分からない、だが、誰もが成功を目指す。

 

そして、どの地域でも若者がキーワードになるのは間違いないと思われる。リスクの低い人が社会を支える側に立ち、リスクのある人を隔離する。可能なら、地域毎に、自由域と隔離域に分離する。既にあるコミュニティを破壊するのが不可能なら、分離状態を上手く作り出す手法が欲しい。

 

感染さえしてしまえば自由に行動して経済を廻す側になればいい。すると未感染であるが、早急に感染するのが望ましい人と、感染を避けるべき人が存在する。同時に、どの株が強毒でどの株が弱毒であるか、それがどの免疫システムとの組み合わせで起きるか。そういう知見が蓄積されるまで隔離ができれば望ましい。だが、恐らく現在の資本主義経済は、そのような猶予を持たない。短期的に最大利益をもたらすために、明日も今日と同じ一日が来る事を前提としてシステムを組み替えてきたからだ。

 

だから誰もがリスクを持ちながら感染してゆく。今の所、感染経路は口と手である。空気中にいるウィルスを吸い込む事、手に付いたウィルスをなめる事、これが原因と考えられる。だからウィルスがいる空間には行かない。行くなら息を止める。息を止められないなら、話すな、歌うな、叫ぶなという話になる。もうひとつ、手で顔を触るな、触るなら手袋を脱げ、洗え、という話になる。

 

梅雨になって湿度が上がれば感染数が減るかも知れない。だが、それは梅雨が終わればまた増大するという話に過ぎない。

 

感染爆発が起きれば、重篤者が救いきれない可能性がある。そして医療崩壊とは、今の所、人工呼吸器が足りないという意味になっている。

 

だから治療方法が人工呼吸しかないのが問題であって、薬の投与で対応できるようになれば、状況は変わってゆく。そうなれば医療崩壊閾値もぐっと上がる。ワクチンの開発が成功するかどうかは知らない。だが、幾つかの有望な治療法、治療薬が見つかっているという話を聞く。感染者の血漿を輸血する事が効果があるなら、感染者から輸血を効率的にする仕組みが必要になる。

 

世界中の医薬品メーカーが血眼になって薬の開発を進めている。早ければ8月には市場に投入されるのだろう。すると、4,5,6,7の4カ月を乗り切る方法という話になる。薬があれば、大規模感染が起きても乗り切れる可能性が高くなる。加速度的に感染者爆発が起きても乗り切れるという話になる。

 

そして、その後の世界は大きく変わるはずである。それはこの疫病が社会に変化を強いるからではない。これだけの事件が起きても社会が変わらない事を人間の側が許さないからだ。これは気分が許さない、という問題だ。我々の世界はこの疫病に対して無力であった。隔離する以外の手段を持たなかった。

 

そのような脆弱な社会に戻る事を人間は望まない。だから新しくなる必要がある。かつては改元などで変わったという事にした。我々の社会は、実はエビやカニなどと同様に脱皮する外骨格型のシステムであった、それが新しい発見だ。

 

では社会が変わるとはどういう事か。どうなれば変わったと実感できるであろうか。我々の社会は連続的に動いている。どこで変わったと認識できるものだろうか。

 

だが、気分の一新は歴史的には何度も起きたはずで、教科書で習う限り、何か暗記しなければならないものが増えた程度の事でしかなかった。歴史学はそういう事さえ伝えきれないほど、安楽な世界に生きてきたという話でもある。

 

何かが新しくなる。21世紀はここから始まる、そういう感じがする。した方がいい。