【ジャニーズ事務所会見】東山紀之、すでに『サンデーLIVE!!』降板 タレントのキャスター業にも言及

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戦争裁判が始まった時、日本の場合は、多くはとぼけたり、弁明したりした。虐待殺害が戦争中に皆無だったはずもなく、その裁判で生かすか絞首刑にするかはもって勝者の特権である。

 

誰と当たるかはくじ運であった。幕末の無能の代名詞である岩村高俊というくじを引いたために激戦で名を馳せた長岡藩である。それは後年から見れば幸運か不幸か。

 

ごほうを食べさせたと虐待扱いされ絞首刑になった者もいる。これらもくじ運であろう。確かに白人の無知蒙昧さの代表例ではある。しかし死者には虚しい言葉だ。いずれにしろ隠し通して生き延びた者もいれば、被って死んだ者もいる、様々。

 

所がナチスドイツの戦争裁判ではそう簡単ではない。ユダヤ人の絶滅計画を知っていたか。知っていた上でどういう行動をとったかは必ず聞かれるのである。ヒットラーと同調した者も、不仲になった者も、ナチスに忠誠を誓った者も、ドイツ国防軍に忠誠を誓った者も、関係なく。

 

知っていたと答える者はまず少ないはずである。見て見ぬふりをして逃がした人もいたであろう。見て見ぬふりをしてなすがままに済ませた人もいたであろう。実際に逃亡を助けていた者が居たとしたらなんという事だ。

 

証拠が残っている者は何を言おうがほぼ首を吊られた。よって生き残った者は、証拠がない、または直接的には関与できない立場にあった、という事になる。そして知っていたか、どうかを問われる。全く知らなかったと答えれば無能のそしりは避けえない。知っていたとなれば、悪人の印象は拭えない。

 

いずれにしろ、この疑惑は、自白をしようが、すまいが一生消える事はない。マンシュタインでさえ嘘つきに見える。シュペーアの人生もそうだ。まるでフランクの裁判が立派に感じるくらいだ。

 

ずうっと昔からそうだろうとは思っていた。そんな噂もあったはずだ。この事務所だけではないはずである。まして彼一人だけであったはずがない。岡田が飛び降りたのを何も理由がなかったなど言わせないのである。

 

芸能界のタブーなど幾らでもある。金、薬、性の蔓延する世界である。だからそういうものに断固拒否しなければ芸能界は健全に発展しない。そう考える人達が頑張って、表立っては行われてこなかったにしろ、例え公表はしないでいたとしても、裏で手を廻し、少しずつでも良くなっていくようにとしてきた人がいると思う。思いたい。

 

「最年長である私が最初に口を開くべきだと思い、後輩たちには極力待ってもらいました」と説明したことに「誤解を生んだ」としながら後輩である10、20代のタレントが取材を受けたことで「若い子たちの言葉が先走るのはよくない。まずは僕をまってほしいと確かに言いました」

 

だからこの発言は気になる。何故ならこの言葉の裏には、もしもみ消せるなら完全に黒を白に塗ってしまいたい、そういう言葉として受け取れるからだ。なぜオープン化を民主主義が採用しているか。多くの人が知る事になれば、それは覆せなくなるからだ。それに反する方法をやろうとした時点で、もう隠蔽しようとしたとしか読み取れない。

 

だからフェイクニュースが力を持つ。人の言葉は独り歩きをする。疑念の種など幾らでもある。その危険性と対抗するためにオープン化がある。隠しても疑念は決して拭えない。隠そうとしただけでその疑惑は深まる。その後にオープン化してももう認められない。改竄する時間を作ったと言われるだけである。陰謀論が決して消えないのと同じ構造だ。

 

改竄する余裕もなく速やかに公表する必要がある。しかも、その公表する相手とは、低学歴で理性も理論も持たず陰謀論が大好きな大衆である。これを生き延びるのは並大抵ではない。

 

ちょっとした言葉使いが説得力を持つ。臨機応変さに人々は感心する。芸人がワイドショーの中心にいるのもそういう駆け引きの力であろうし、ひろゆきがもてはやされるのも、そういう力であろう。

 

重要なのは印象である。どれだけ出鱈目でも5%の論理的正しさがあれば人は説得できるのである、そのために必要なのは、論理でも証拠でもない。それをリアルタイムに語る人間の印象に尽きる。

 

人の間に立って、そこで人を気迫や態度で説得してきた人たちの力量というものがある。芸能人などその典型であろう。ライブする力、の前では、書いた言葉が力を発揮するのは数十年後である。古典である。このライブ力が世界の行方を決める場面はたくさんある。政治家がなぜ人前で演説をするのか、ギリシャの昔から人は熱狂してきた。

 

どうやって我々は理解しあうのか。福島第一の汚染水放出の問題も世界中を駆け巡っている。ジャニーズ事件でさえBBCが報道しなければ今も何もないままで見過ごされていたであろう。この国の自浄作用はここまで地に落ちたと言うべきか、それとも我々には我々のやり方があると言うべきか。

 

ケリの付け方は表から白黒決めるだけが方法ではない。裏から手を指しのべる方法に落ち着くような所もある。寝た子を起こさない方式は問題を解決しながら最小のコストで済ますような所がある。それに飛びつくのが本当に理想的か。それは問題による。その問題をどう解決したいかという当事者たちによって決まる。くじ運である。

 

だから必ずもう少ししたら実はという話がスクープされると思う。その時に東山とそういう関係になったという人間が出てきても何も不思議はない。もう許せないと告白したと語られたらどうなるであろう。

 

さて、その発言は本当か、それとも金か。そんな風に立ち止まりはしないのだろう?

 

時間は置かないほうがいい。例えそれが正しい方法だとしてもだ。巧遅よりも拙速がいい。そうであるためにタレントになったのだろう。そういう意味で東山紀之という人は根っからの俳優なんだなぁと改めて思った。

 

タレントは辞めても俳優は続けてくれないか。あなたの必殺は誰にも真似のできないものだから。