■紅組司会・広瀬すずコメント
紅白という大きな舞台のこんな大役を私に与えてくださった皆様に、まずは、一番驚いています。
本当にどうして良いのか分からないというのが、今の正直な気持ちです。
私に務まるのか、期待にお応えできるかまだ自信はありませんが、ご出演されるアーティストの方々と、そして内村さんと櫻井さんという、心強い先輩方とテレビで見ていたあの場所で、ご一緒させて頂けることを楽しみにしております。
「朝ドラ、100作目だからね、頑張ってね」と言われたときと同じようなプレッシャーと責任を感じております。まだまだ実感が湧かない日々ですが、一生懸命頑張りたいと思っております。よろしくお願い致します。
「紅白歌合戦」に公共性があるかどうかは別にして、年末の風物詩になっている以上、辞めたら寂しい。一種の文化にさえなっている。その役割を担う番組である。紅白の後の「ゆく年くる年」とセットにして NHK が国営放送になった後も残しておくべきコンテンツだと思う。
といっても NHK の公共性など重要な話ではない。ないのは明らかだからである。重要なのは広瀬すずちゃんがいつの間にか20を超えているのだ(2018/06/19)。彼女の存在感は「明星にゃるめら」と「狙い撃ち」だけで既に確立したと言ってよい。今、ここで引退したとしても、この快挙、功績が失われることはない。
彼女の系統にあるのは泉里香だと思うが、好みはあるによせ、どちらに演技力があるかは論を待つまい。しかし、泉里香だってIndeedで爪痕を残しているし、有吉の夏休み2018 はとても素敵だったのである。
それが証拠に Indeed はどのCMも優良なものが多いが、今年の狙い撃ちは過去最悪の出来栄えである。
20を超えたということで、今後はお酒、ギャンブルなどのCMにも参入するだろう。あと数年も待てばよい。お酒の CM といえば、ちょっと狂がかった金麦の檀れい、999 Jazzバージョンが素晴らしい知多、寺尾聡「ラストダンスは私に」によく似合う松下奈緒、食らいつきが男らしい満島ひかり、腕の細さに見入る戸田恵梨香、などなど思いつくが、秀逸はやはり沢尻エリカのほろよいであろう。
何が素晴らしいって、あんな生意気な娘がしっかりと飼いならされちゃってという囚人感がである。この感じが堪らないわけである。実際に彼女が優れた俳優であるかどうかは知らない。上手い女優といえば、ケリー・ギディッシュやエミリー・ウィッカーシャムなどを思いだすが、この辺りは日本のドラマは脚本が生ぬるくて浅すぎるので可哀そうではある。ほどほど演技に込めようとしても本がペラペラではね。
美しい顔立ちの女優は非常に多くいる。だから、よほど演技に独自性がないと目立たないのだが、目立てばいいわけでもない。男ならまだ織田裕二のような演技派になれれても女性であれはきついと思う。
この辺りのトレードオフには、色んな役を演じられる人と、印象は変わらないけど兎に角強烈という人がいて、例えば演技が上手と言われるデニーロでさえ、どちらかといえば強烈な印象でやっている俳優だと思う。
デニーロといえば最新はトランプと真っ向勝負してて、詳細は知らないけど俺だってアメリカ生まれなら民主党を支持するよなぁと思ったりする。ま、状況によっては白人主義に染まっていても不思議はないけど。
で、デニーロといえば、太ったり痩せたり、髪の毛ぬいたり、歯を抜いたりとそういう点ばかりが協調されるが、そんなものを演技派というのは勘違いも甚だしい。そういう点だけを真似する俳優も出てきているようだが、そういうアプローチはコスプレと何も変わらない。王様の演技をするのに王冠を被るのとそう遠くない。
演技はそういう部分を言うのではない。タクシードライバー、ケープフィア、レナードの朝、マイ・インターンと、彼は多様な人物を演じている。演技してなくたって迫力のある人だし、映画という言葉を覚える頃にはデニーロと出会っていた。彼の存在感、彼の工夫はその道を行く人ならば誰もが初歩の初歩で出会うひとりだろう。
というような演技論で広瀬すずたんを語るのは詰まらない。彼女の魅力はそこにはない。
若さの特権とは挫折にあり、大きく挫折するには大きく己惚れてなくちゃいけない。その大きさだけ、血となり肉へと変わる。彼女の気の強さも、天真爛漫さも、怖いもの知らずさも、それがこの若者の魅力だ。彼女が学ぶもの、その工夫、まるで、いつか階段から落ちるためには昇っているようではないか。まるでイカロスのようではないか。
若い人はそうでなくちゃいけない。男であろうが女であろうが、周囲の評価にではなく、自分自身の中から沸き起こる生命力で、上昇するのだ。一度も天狗になってないような人間の何が魅力なものか。
多くの人は、勉学が足りず、才能に頼りきっている間に、若さを食い潰す。そこで自分を見直す人は少ない。臆病者でなければ使い物にならない。恐怖を感じないものに成長は見込めない。
もちろん、世の中には偶然の産物として、なんら勉強しなくて50、60まで俳優として生き残っている人もいる。そういう人が忘れられるのも早い。演技に難あれば世渡りという才能が必要だ。
どれもこれも同じで、何度も何度も同じ自己再生産を繰り返すばかりで、何も面白くない。一度見れば十分だ。余程その魅力に参った人でなければ説得力を失う。新しい事にチャレンジする、40歳以降にそういうのが多いのも納得がいく。
そして当人はとてつもない変化、チャレンジングだと思っているが、周囲は何も変わってないな、と見るのもよくある話である。
岸に向かって一生懸命泳いでるつもりが、離岸流にハマって、まったく岸に近づけない。そういう時は角度を変えて離岸流から離れるように泳ぐ。遠回りでもそちらのほうが生き延びる可能性が高くなる。
いずれにしてもここからの10年が彼女の天下である事は間違いない。幾つものゴシップに見舞われながらも航海を続けるだろう。様々な作品や舞台で活躍する。時に撃たれ、時に討ち、その度に彼女は傷を負いながらも逞しくなる。
これからも、彼女の主戦場がCMにあることは間違いないし、彼女が自分の中に構築されてしまった子供らしさ、少女らしさから、女、人間への脱却はあと数年で決戦の場を迎えるだろう。その時の宮沢りえは独創的であった。
様々な女優が子供から大人への脱却に苦労している。少女から女性への脱却のためにどれほどの試行錯誤が繰り返されてきたか。誰もが自分のオリジナリティと誰かの行動をヒントにしながら足掻いてきた。そんなものを下らないと笑って馬鹿にした女優だって幾らでもいる。樹木希林はどうだったか。
海外の女優といえば、ソフィーマルソーやエマワトソンくらいしか知らないが、どうやって自分の成長と俳優業のバランスを取り、プライベートとパブリックをシンクロさせていったのかは知らない。彼女たちがどうやって演技を磨き、活躍の場所を広げていったのか。
社会が自分に持っている色、イメージ。それと演技とは本質的に全く別のものである。だが、トルストイの家出論争を顧みるまでもなく、観客の中にそれは厳然とある。それは強固に密接なものとしてある。
ギブスがアビーを追い出したというフレーム外のゴシップでさえ、もう強烈で本編を見るときに頭の中でハウリングする。僕らの脳は自分が思うほど、自由自在には動いてくれない。警戒音は待ったなしで鳴り響く。
愛される人になれ、というのはこの点にある。人間は元来が強烈なバイアスの中で物事を判断している。人間を信頼性の一点でまず判断する。日本のお笑いという芸能が、この点にもっとも敏感であり、自分は信頼できる人ですよ、という印象を観客に持ってもらう、これが出来なければ笑いなど起きるはずもない。それをよく知っており、最初の5分でどこまでバイアス落としができるか、そこが勝負である。売れるのは、まず良い人であるという印象が付いてからだ。その印象があって初めて反対するアンチも生存可能になる。
いずれにしろ、広瀬すずは20を超えたことだし、ゴシップ記者は、どこかで叩いてやれと待ち構えている。彼らは狩人として、沢尻エリカの再来だと広瀬すずを見ている。
だから、だからなのだ。十分な警戒をして守ろうとするスタッフもいるし、これが最大のチャンスであると強烈な事件を仕込むスタッフもいるだろう。一回ついた印象は拭えないし、デジタルとして残る21世紀は猶更である。何度も再生される。
映像の魔力、映像として残ったならばこれ以上強いものはないという原則を覆すのは不可能だ。編集のウソであれフェイクニュースであれ、覆せない。そういう時代に、これからの演劇人がどのように立ち振る舞ってゆくか。だが、芸事の大原則はシェイクスピアの時代から何も変わらない。
広瀬すずの未来は…