広末涼子『STORY』連載エッセイは休止 光文社「今後については未定です」

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末広は近所にある美味しいラーメン屋だった。醤油ラーメンの生姜がほどよいスープが絶品で、最高傑作といってもよい味だった。ただしおばあちゃんがやっている店なので、季節ごとに出来不出来はあった。

 

餃子も美味だが、焼き加減はやってみるまで分からない範疇にあった。ある夏の日には醤油に産膜酵母が起きている事もあった。初めて見たから記憶に残っている。

 

それでも美味し店の雰囲気も昔風で何にも代えがたかった。残念ながらある日に店は閉まったままとなり、最高傑作と呼べるあの醤油ラーメンを味わう機会は記憶の中だけのものとなった。

 

広末は著名なため色々と言われてきた。あった事もなかった事もさもありなんと書かれ、紆余曲折を巡り続けてきた人だろう。枕営業の噂なら死ぬ程書かれている。

 

まぁ連載や映画が途中で延期となろうが、斉藤由貴の降板と比べれば小さい。余りにも不自然な物理基礎のおかあさん失踪事件と比べれば。

 

竹内まりあはMJ5よりUniversity Street。断然と思う。おかえりなさいならトップをねらえ中島みゆき

 

これだけ散々不倫のドラマを使っておきながら実際にリアルで起きたら許さない構図はフェアとは言えまい。男女のその後のストーリーにも違いがありすぎる。唐田えりかが相当早い復活なのは安心した。

 

戦争映画を作ったからといって、戦争をする理由にならない。現実と架空を一緒には考えない。しかし、戦争をしてはいけない事は戦争について考えてはいけない事ではない。戦争をしないがためにも研究が必要である。そうしておけば不幸にも戦争が起きた場合でも被害を最小に留める事が可能である。この世界の力学では極力無知は除外すべきだ。

 

不倫のドラマを面白がる心理が、不倫を欲する心理と同じではない。しかし、物語の中に何かを見ているから面白いと感じているのだ。クロスザラインはしない。しかし、超えた疑似体験は決して人生の絵空事ではあるまい。

 

それは不意に自分の身に起きるかもしれない何かに対する予備訓練かも知れない。ならば人によってはそのラインを実際に超えてみる人がいるのに不思議はない。不倫は生物学的な禁止ではない。

 

しかし最大の素敵なのは、この文才だと思う。まるで波の連続のような繰り返し、その畳みかけ方は右大臣実朝かよとさえ思ってしまう。

 

今日は、逆ギレ状態してしまってゴメンなさい(汗)。あなたの主張があったのに、私が逆手に取って、ハッキリきっぱり言ってしまう形になってしまったこと、ちょっと変だったか...ひどかったよな(涙)と反省しています(涙)。

 

本当、好きすぎて反省の連続(汗)だよ。いろいろあって、心配も不安も胸もしめつけるものもとめどないけれど...でも、ただ、ただ好き

 

出逢ってくれて、会ってくれて、合ってくれて、くっついてくれて、入ってくれて、泣かせてくれて、きもちくしてくれて、いつもどんな時もあなたらしく居てくれて、対峙してくれて...


本当にほんとに、ほんとに、ありがとう。心からのありがとう。感謝しています。愛しています。

 

これは完全に交換日記である。二人で共有するが、公開は仮定していない。だが、将来に破局でもすれば公開される可能性は十分にある。その懸念がない感じが彼女の心理の純粋さを想像させる。そして、こうのような文を書く心理に興味が引かれる。

 

プライバシーは人間の尊厳にかかわるものだ。個人情報保護はコンピュータ上に記録されたデータの活用に関するもので各個人の不利益となるものへの法的規制である。この交換日記の場合はプライバシーの侵害となるだろう。

 

国家のスパイ活動ならいざ知らず、民間なら犯罪のはずだ。俳優は演技を売る商売とはいえ、職業柄、どうしてもプライバシーの切り売りはする。そんな彼女のプライバシーはどこに線引きされるか。

 

スキャンダルの主たる活用は政治家の失脚である。その役割を担っているから文春には価値がある。その能力を普段から鍛えるために芸能ニュースもある、出版界にはそういう暗黙の構図がある。

 

女優がセックスシーンを映像で公開してるからといって、その人が何を隠したいと考えるかは個々の人が決める権利である。よって何を公開し何を拒否するかの権利は他人には侵せない。

 

とは言ってもそれは無制限に守られるものでもない。不正、犯罪、クーデターの計画など暴かれなければならない個人の秘密というものはある。

 

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ほとぼりが冷めたと思ったかどうかは知らないが、同じ同性としてどうしても一言いいたかったのかとも思うが、三浦瑠麗が「恋に落ち続けられる能力」を女優の才能と推察した。本当に恋をしてなければ演技が磨かれないのなら俳優ではない。生活の充実は仕事にも影響するが、演技の出来不出来はそんな所にはない。本気でなければ演じられないのならそれは演技の技術とは呼べない。

 

本物の戦争と映画の戦争は異なる。その異なりを映像の中で見分ける事は原理的には出来ない。故に俳優は、それを本物と区別する事が重要なのである。本物ではないことこそが表現である。その上で視聴者に本物のように見せる事が出来る事が演技である。演技はイデアであると言ってよい。すると、迫真の演技、本物と見まがう演技とは、区別できるの意味を持つ。

 

芸能で働く人たちは、その区別が巧妙である。まず自分自身を周囲から守るための防衛機制が働く。そのうち仮面の区別もなくなる。作りあげられた架空のプライバシーでさえ本物と信じる事になる。

 

女性は特に精神的に不安もあり、誘惑もあり、脅迫もある。ガラスの天井は彼女らの前にある。彼女たちは本質を隠し、形成し、騙し、噴出させながら生きる。精神の安定性を得る何かは必要だろう。

 

それは感情的に満足させる必要があり、それと最も密接なのは恋愛、家族などの生物学的な関係性だろう。深く感情的な関係性を構築する上で、本当は何を求めたのかは恐らく本人にさえ分からない気がする。

 

文を書きたいという気持ちの中に何かを伝えたいという欲求がある。そこには相手に伝えたいものがある。そこには、本題があり、その後にケアがある。このふたつで構成されている。伝えたい事を書いた時に、相手の気持ちを害していないかという懸念が残る。だからフォローが埋め込まれる。

 

その方法は様々だが、伝えたい主体は後者に溢れる。業務連絡は無味乾燥となりやすい。それは要求であるから、故に、その後に本心が書かれなければならない。その部分を通じて互いの関係性を維持し、気持ちの有無を伝え、感情の色を受け取ってもらう。

 

そこに詩的なものを添える事は日常茶飯事である。平安時代なら和歌となっていたはずの言葉だ。だからこの言葉たちはまっすぐに俵万智に繋がっている気がする。最新のSNSに投稿される多くの和歌が同じ軸線上にある事は何かの表出ではないか。

 

そういう点でここまでセックスの繋がりの中に最大の気持ちを見出している感じが、彼女の価値観を表しているようでもあり、さてこれは戦略なのか本心なのかという疑念さえ湧き上がってくる。

 

それを信じる事ができるのはただ特定の人間に向かう時だけであろう。さすがは女優である。