「~してもらっていいですか?」に不快感! 押しつけがましい! 敬語表現としてアリなのか?

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敬語は、相手との距離を遠くする用法であって、遠くする事で相手に警戒を起こさせない気配りを込める。遠さには、距離、高さ、時間がある。敬語に過去形がよく出現するのも、過去には戻れない事実が遠さと直結するからと思われる。

 

敬語は古代における階級や権力の発生とほぼ同時期に起きたと思う。王に対して余計な警戒をさせない事がとても必要だった。だから敬語は王の側からではなく仕える側から発生するのが自然と思われる。

 

進言や献策など様々な状況において、自分の安全のためにも裏切り、下剋上、疑心暗鬼を王の心の中に生じさせない工夫が必要であった。そうしなければ簡単に疑心暗鬼に陥る。だから自分の側からへりくだって裏切らない事を常に表現する必要があった。また寝首を掻くなら尚更である。

 

社会情勢がどうあろうと、礼を尽くすのは基本的には服従の意志表示である。これは相手の言葉に全て従うという意味でもある。その結果として敬語は相手の労力(エネルギー)を最小にする方向を目指す事になる。

 

日本語の敬語には尊敬、謙譲、丁寧がある。尊敬は相手を中心にする事で相対的の他を下にする。謙譲は自分を中心に下にする事で相手を高くする。高度差という位置エネルギーを巧みに使うが、敬語が良く発展したのは階層や支配の強い歴史が長かったからではないかとも考えられる。この場合、敬語の対象として天皇があり、それを維持した時間の長さと無関係とも考えにくい。

 

尊敬は裏切らない表明、丁寧は尽くす表明、謙譲は上下関係の再確認と理解する。尊敬は過去、謙譲は高さ、丁寧は距離という場面と理解しても良さそうである。

 

「してもらっていいですか」と似た言葉に「してあげる」がある。どちらも、「する+方向」を相手に向けて使う。これらの「して」用法(授受表現)と関連するものには、もらう、あげる、くれる、おく等がある。

 

敬語の対象が自分である場合、それは自分に向かって直接的に飛んでくる力である。たかが客という立場なだけで敬語を使われるのを嫌がる気持ちが普通の人間の心理であろう。そうとう屈折した心理を持たない限り、それが普通である。

 

高貴な立場、貴族などの階級制が崩壊する事で敬語の役割は変わっている。その意味で敬語を使われる事に違和感を感じるのが通常であって、それでも使う場合は、相手に向かう力を更に弱めよう、間接的にしようとする働きが起きるのは自然と考えられる。

 

尊敬が自分に向かってくる力であるのに対して、丁寧で距離を取ろうとする事で敬語の直接的な働きを更に弱めようとする。この弱めようとする効果が敬語の新しい局面と考えてもよいだろう。弱いくらいの方がなお敬語の理念を満たしている。

 

人間同士が互いに接触すれれば、そこには、何らかの主張、依頼、要求が発生する。その時に敬語を互いに使う関係性が生じるであろう。その時に起きる事は、相手の拒否する労力を最小限にする事である。これが現在の敬語の最大の効能と呼んで差し支えない。

 

何かをあげるといわれた時に、不思議な事に断る方が心理的負担が高い。だから普通は断らない。その方が両者にとって労力が最小であると判断する。だからイラナイものは断って返すよりも、貰ってから捨てる方がコストは小さいのである。だから、与えた方がその代償を求めてくる場合に話はややこしくなる。

 

だから、断るコストを小さくする活用が必要なのである。断る心理的負担を小さくするために。断ってもいいですよと表現するのが敬語の主題なのである。

 

「してあげる」の場合も断る負担は小さい。なぜなら「してもらわなくてもいい」と言えるのは、「あげる」があくまで上げる側の立場しか表明していなからである。もらう側の都合を一切考慮していません、という宣言が含まれている。だから、もらう側はイラナイと回答しやすいのである。そこには、なんら心遣いがないという意味を含んでいるからである。

 

相手は別にこちらの事を考えている訳ではない、という立場で伝える。これはあくまで自分の勝手な行為であって、あなたの都合など一切考えていませんよと宣言している。だから断りやすい状況が作れると想定する。

 

所が、「あげる」という表現が大上段と感じる人もいる。あげるには無償の寄付のニュアンスも含まれる。まるで自分が施される側にあるような気がしてくる。そういう心理を感じる場合がこの理由となる。

 

「してもらっていいですか」は「してもらう」+「いいですか」の組み合わせで敬語として振る舞う。この背景には、私が困っています、助けてくださいというニュアンスが含まれる。

 

「してくれる」と「してもらう」は似ている。「きもちくしてくれる」と「きもちくしてもらう」のニュアンスの違いは、要求の有無だそうである。してくれた場合は相手が自発的にして呉れた、してもらう場合はこちらからの要求に対してしてくれた、そういう違いがある。

 

すると「してもらって」には要求がある。「いいですか」は断る事が可能の表明。この二重化は、発した側としては敬意を込めたものであるが、受け取る側には、要求が二回に届いた構図となるので、却って断りにくく感じられる。

 

何故なら二回要求してきたという事は切羽詰まっていると考えるのが自然だからである。つまり断れないという感覚が強調される事になる。だから不快と感じる人の感性はそう大きくは間違っていないのである。しかし、この言葉が使われる多くの場合を振り返ってみれば分かるのだが、実際は断れない状況で使われる言葉なのである。

 

もし断った場合は手続きが中断する、最悪の場合はキャンセルである。そういう場合に使われている。これは、両者の間で暗黙でこれを断る事はないという前提がある。使う側は、この前提は両者の合意として形成されているとする。通常は受ける側もその状況は理解しているから、特に問題とはしない。

 

美容院で、こちらを向いてもらっていいですか?と言われる場合がある。もし断っても、美容師が移動して体勢を変えれば業務上差し支えはない。しかし、顔を曲げるコストと比べれば数十倍のコストがかかる。これを断る勇気を持つ人はそう多くはないはずである。

 

ニュアンスの中に多解釈が込められていて両者の間で擦れ違いや感覚の齟齬を生まれるのは言語の性質上仕方がない。それを丁寧に解析すれば、恐らく両者の言い分はどちらも正しい。それを多くの人が無意識で使っているという事が言語の豊かな土壌を示している。この力強さが全ての人を覆っている事は脅威的な感動だと思われるのである。