「人類総体がニュータイプにならないと突破は…」 ガンダムで富野由悠季が気づいた地球の限界値

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「このままだと絶対的に地球の限界値を超える」と気づいたという。「人類の総体がニュータイプになることができない限り、突破できない」

 

「スーパーマンみたいな1人のニュータイプがいるだけじゃだめ。人類の総体がニュータイプになることができない限り、突破できない」

 

「きちんと歴史を理解してほしい。人類の独善や資本主義というものについて。そこに地球を汚染した理由を見つければ、改善策を発明できる」

 

「今の世の中の事態を小さな頃から見てきた子どもたちなら、地球のことを考えることができる」

 

ニュータイプの定義は最初に触れた時にはハテナが頭上に浮かび、考えた所で、テレパシー限定のエスパーとしか思えず、宇宙で意識を拡張した新人類の覚醒であったとして、どうしてそれが問題解決の拠り所になるのだろうと不思議でもあった。ま、好き好きに自由に解釈できる点ではこれは抽象的な概念であった。

 

作者が何と主張しようが、ニュータイプは作中において、主人公側が都合よく勝利する理由のための設定である。これはキャラクター設定の一種である。強い理由に血筋や訓練や才能を持ち出すのが熱血型なら、それをきっぱりと拒否した。そうい感じが強い。

 

軍という現実を作品世界に持ち込んだために、必ず主人公が勝つという従来の文法は破綻せざるえない。その矛盾をどう解決するか。

 

なぜ主人公たちが勝てるのか、このエクスキューズに答えるためにニュータイプは便利である。それが思ったよりも使い勝手がいい。いや、突破口となる思想性させ含しているのではないか。地球から宇宙に進出した人類は従来とは全く異なる認識能力を獲得しなければ生き残る事は難しい。

 

この本能的な確信は正しそうにも見える。今のままでは多分駄目だろうという予感も正しそうに見える。ニュータイプという用語は作品上の設定では収まらず独り歩きを始めた。遂には雑誌のタイトルにまでなった。

 

この社会にはそう広く認知されたとはいえない概念であるが、アニメを中心に爆発的なまでの認知度を得た事は、それは事件と呼ぶにふさわしい出来事であったと信じている。

 

ニュータイプという概念に作家も含めて様々な解釈が持ち込まれたのは自然な流れでだろう。ここに決定的な答えは必要ない。

 

なぜならニュータイプとは、敵味方で無線機もないのに互いの会話が成立するための発明だからだ。従来のロボットアニメでさりげなく成立したリアリティを否定する必要が出てきた。軍組織を導入した以上は当然の帰結である。

 

軍というリアリティの導入が敵味方で通信回路を開いて会話する事が成立しない世界をもたらした。もちろん、兵器である以上、通信回路を介さずに会話が成立するなどありえない。兵器のリアリティが物語よりも先にある。

 

レコンギスタガンダムにトイレを付けた程の人がこういうリアリティに無頓着はない。ガンダムのランドセルが小さい事の理由に宇宙空間で救出を待つ間のユニットが搭載できないという理由を持ち出す人が、物語の中で生きてみなかったはずがない。

 

作品の要諦として敵味方のキャラクターは憎しみあったり理解しあう。分かり合う努力を続けたなら問題は解決できるか。戦争は終わらせなければならない。なぜなら地球が耐えられない。だが、人間にそれは可能か。今のロシアの行動を如何なる気持ちで見ているのだろうか、とも思う。

 

ニュータイプはそのような思いを乗せるのに便利な思想だったと思う。

 

でなければあれほどの戦場の中で生き残れたはずがない。作品の奥底でこの概念がリアリティを支えている。ミノフスキー粒子の考案もニュータイプという発明も作品のリアリティ、ここでいうリアリティとは軍の事だが、を成立させるための舞台装置であったが、それが設定を超えて広がりを見せた。その開花の数だけ作品群が生まれた。