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数々のコレクションを見るにつけ、日本のアニメータは浮世絵師たちから連綿と続く大河の一滴だと強く思う。江戸時代にもしアニメーションがあれば、どれだけの浮世絵師たちが参加しただろうかと想像してみる。
竜の子の作品群は、テッカマンの最終話が印象深く残っている。日本アニメ史上、屈指の最終話のひとつだと思うが、打ち切りとは知らなかった。人気は徒花、それが逆に作品に厚みを持たせるとは。
竜の子の特徴のひとつは四角い目ときりっとしたまつげだろう。どこか大人びた感じがする。それ以前の主人公たちが15歳としたら、年齢設定が18にまで上げられた事も納得である。しかしガッチャマンにしろ、キャシャーンにしろ設定年齢は10代であるが、実際は20~30代を想定していたのではなかろうかと思う。
タイムボカンやミラクル大作戦なども一目でタツノコらしいキャラである。この個性の宿り方に竜の子のアイデンティティがある。
それでも当時の個人的な感覚では竜の子作品は主流ではなかった。その頃の主流は手塚治虫系の丸を主体とするデザインだったと思う。
それが色使いも含めて異国の雰囲気を強く感じた一因だろう。特にアメリカという感じが強い。この異質が竜の子の強みとさえ思う。コカ・コーラでもなくペプシコーラでもなくそれはドクターペッパーという感じか。
メカニックの美しさも独特であった。主流が宇宙戦艦ヤマト(松本零士等)なら、艦船から出発しないデザイン性、ドタバッタン、ペガス、ブルーアース、フレンダージェット、ゴッドフェニックスには強い説得力がある。中村光毅、大河原邦男などには個人の作家性よりもスタジオの集団力というイメージがある。これは多分に原作の有無に起因するのだろうと考える。
今のアニメーションにはオリジナル性を捨てざる得ないような流れがあって、原作付き、知名度などが重視される。新作であっても過去作のシリーズもの、リメイクになる。これは過去の遺産で食っているという意味だし、もう大胆な勝負をするだけの体力が残っていないという実体でもある。またそういう勝負は個人レベルでしか行えないほどに肥大化してしまった組織の大きさももある。
という事は個人の作家性が再び興隆する時代がまた来るだろう。それがどの業界でどのような媒体で始まるかは知らないが。
なぜか、ガッツ乱平(百里あきら)を思い出だす。九鬼という名前のためか。