「アニメの作り方をゼロから見直すべき」  山本寛監督が語る「業界改革」

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インボイス制度ではフリーランスが狙い撃ちされて、アニメーターもその対象となるらしい。その結果として国内のアニメータの大部分がフリーランスでは存在しえず、業界は壊滅的な被害を受ける最悪の場合は事業継続不能に陥る可能性がある。そういう懸念がある。

 

弱小な業態は実質的に破壊される。この国の創造に係わる人の何人かは廃業に追い込まれるか趣味にシフトするしかない。

 

もちろん、インボイスに対する基本的な対策は企業化である。雇用される事である。それを望むかどうかは個人の自由の範疇。その結果として業界から去る決断をするのは、例えそれが業界の大損失であっても、個人の自由の選択であり、部外者が口を出す範囲ではない。その気になれば影武者を立てるなど幾らでもやり様はある。

 

故にインボイス制度では、小規模であるが故の匿名性、ペンネームなどは失われる。事業である以上は実名と結びつく。公開が健全性の保証になる。消費税という弱者から最も取りやすい税を増やしながら、財務官僚たちは、最も安易な選択に逃げ込み企業優遇と引き換えに自分たちの老後を確保する、産業の育成は財務省の管轄ではないというのが彼らの主張である。

 

財務省は日本の官僚の中では最高峰の人材であって、その為に東京大学があるといっても過言ではない。その彼らからしてこのお粗末な制度設計しかできなくなっている事は、日本の未来を憂慮する根拠ではある。この国はスタックしているという比喩がぴったりである。

 

もちろん、小規模だから消費税が優遇されるのは税の公平性から言えば望ましくない。消費税が優遇される必要があるか、恐らくはない。その点でインボイス的な制度は必要と思われる。

 

しかし数兆という売上を出すトヨタでさえ赤字だからと税金を払わない。それでも平気な顔して執行役には何億という給与を払ってきた日本の税制である。とてもではないが完璧とは思えない。税制の不公平感は革命の第一の理由である。革命が起きたらまっさきに吊るされるという危機感が財務官僚たちには不足している。

 

それでもフリーの大半は自民党に投票するであろうからインボイスについてどうこういう必要はないのである。

 

アニメーションは産業としては小さいが、世界に対するメッセージとしてはとても巨大である。That’s one small step for a man, one giant leap for mankind.の気概がある。日本に残された僅かな世界と伍する産業である事は間違いない。トヨタでさえ電化で負け組となる可能性がある。アニメーションは殆ど日本の最終決戦兵器と言って良い。

 

そのアニメーション産業の殆どが若い人たちの野心と野望と夢だけに支えられている。産業としてはほぼ絶望寸前である。手塚治虫らの世代が前人たちから引き継いできた種を花開かせた。その種が弾けて飛んで行き何人ものクリエータの中に根付く。

 

もちろん優れたクリエータなど碌な人間であるはずがない。未来の少し先を見たくて壁に穴を開ける人たちである。破壊する事に何の躊躇もない。そんな連中が人間を人間として扱うはずもない。パンドラの箱を開けた人がクリエータの始祖である。

 

安い賃金に支えられた産業がこの先も人材が得られるとは考えられない。クリエータ気質の人がどの分野を選ぶかは社会の環境による。かつては浮世絵師であった人が昭和の時代に生まれれば漫画やアニメの世界に入ったであろう。平成の時代ならゲームやCGの世界を目指しただろう。さて、今の時代は?

 

若い人がその産業を目指す事だけがその業界が発展する理由である。創造性という刺激だけが、それを可能にする。サッカーだって先人たちのプレーを見た人が漫画を描き、その漫画を読んだ人が刺激を受け、その道を選ぶ。その過程では残酷なまでの才能や運や金による淘汰と挫折が繰り返されている。

 

だが、その挫折こそが、その多さこそがその産業を支える。挫折する理由が多い程、産業は強靭になる。そこに足を踏み入れたから挫折して去ってゆけるのだ。その人たちが周辺であれ、違う分野であれ別の道を見つけるならば、必ずその産業との結びつきをもって進む。糸は切れていない。そのつながりの連鎖が大爆発を起こす。それは中性子の連鎖反応のように。

 

日本の漫画は手塚治虫が居なければ随分と違ったものとなっていただろう。これだけの興隆が起きたかは不明だ。彼に刺激をうけなければ宮崎駿でさえ傍流で終わったように思う。刺激の連鎖はもちろん、手塚治虫から始まったのではない。彼もまた大きな影響と刺激を受けてきたひとりの担い手に過ぎない。

 

Chaplinの映画を見る時、そこに手塚治虫を感じずにはいられなかった。日本という範囲では成立しえない。地域も、そして時代も超えて。雪舟が明に渡った時代も中継点に過ぎない。そこから手塚治虫まで地続きである。

 

漫画がここまで広がったのは印刷技術と書店という販売網、物流が下支えになったからだ。そして出版社の人たちがこれは面白いとのめり込んだからだ。

 

アニメーションを産業として見れば、人間が手作業で行うものであって、コンピュータが導入されたとはいえ、オートメーション化はされていない。AIによって激変するにしろ、暫くはどうしても人手を中心に組み立てるしかない。その点ではITによく似ている。

 

誰もが同じ作業ができる訳ではない、携わった人によって完成度が異なる。時にアニメーションではそれが決定的だ。

 

動画はコンピュータがやってくれるようになるだろう。しかし原画はまだ難しい。そしてレイアウトや脚本や絵コンテとなると小説家、画家、音楽家、カメラマンがごったませのどろどろである。総合芸術と呼ばれる所以だ。

 

この産業自体が効率化を拒むような所があって、作品を仕上げるにはどうしても締め切りと相いれない場合もある。だから一般の企業化に耐えられるのは相当に早い時期に能力を開花した人で、そういう人材を音楽や小説、漫画とはくらべものにならないくらの人数を集めないといけない。

 

その中には全くの新人が含まれるか。この国は新人を育てる能力をうしないつつある。即戦力以外に給与を払う余裕さえなくなりつつある。だから20年後には終焉するはずである。お金がなければ止む負えない。今いる人達が食えるだけで精一杯である。年金をもらう頃には廃業である、残念という言葉で受け入れるひとたちばかりだ。

 

それが個人事業主の考えならそれはそれでいいのである。年金をもらうまでは仕事を続ける。年金がもらえるようになれば趣味で細々やってゆく、これは健全な考え方であろう。

 

そしてアニメーション産業も基本的にはこの個人事業主の考え方で進めてきた産業であって、このやり方でどれだけ人間を増やせるかにチャレンジしてきたとも言える。最初は手塚治虫が自腹を切って行った。その彼をしても虫プロは倒産する。

 

それを嫌いサンライズは生まれた。結局はバンダイに吸収されなければならなくなった。東映動画のような企業でさえ状況は変わらないのではないか。下請けは個人事業主の集合体だ。そこが狙い撃ちされるように崩壊しようとしている。

 

個人事業主といえばフリーメイソンであるが、石切工たちの組合とは組織化の事である。職人が個人的動機に強く依存した仕事の仕方をするのは作品と金銭の間のトレードオフのようなもので、大規模化、企業化とは相いれない。

 

現在の企業化は大量生産と大量消費による途切れない収益に依存している。月々の売り上げの見通しがあるから給与を支給できる。国内の企業ならどこも似たようなものだ。アニメーション産業ほどひどくないだけで同じベクトル上にいる。給与の減額が市場を縮小し企業の業績を小さくする悪循環から抜け出せない。

 

結局、アニメーションをブラック産業から脱却させるには携わる人の数を減らすしかない。それが効率化の正体である。その代わりにコンピュータを導入する。人間の変わりにコンピュータを使う。特攻機よりミサイルの方があらゆる点で理想的なのである。人のコストが高い事に問題は行き着く。

 

人が減れば創作性は落ち込む。どの才能がどう開花するなど誰にも分からない。宮崎駿富野由悠季のふたりが同時代に存在しただけでも奇跡である。その後に押井守庵野秀明と続くなど漫画である。

 

家内手工業的な産業をどうすれば工場制機械工業に出来るのか。それは産業として可能であるのか。恐らくアニメーションはIT企業に範をとるしかない。

 

そしてIT企業が相手にしている市場規模、そして国家からの受注、などの資金の大きさ、製品数、日々の取引量とそれに携わる人間の数を比較してみればいい。するとアニメーション産業というのは製品としてみれば非常に数が少ない事に気付く。ITが生み出す製品の数と比べても圧倒的に数が少なく、手間がかかる。それを回収するには世界的ヒットが欲しくなる。

 

インターネット上での回収、CD/DVDによる回収がなければ成立しえない。著作権を使って長く回収する仕組みが必要である。かつて音楽家や作家たちは著作権が認められるず貧困にあえいでいた。19世紀の優れた作家たち、例えばフォスターなどは貧困の中で若くして亡くなった。正当に利益が還元される仕組みが必要でその受け皿として個人か企業家という話になる。著作権を行使した音楽は既に廃れた産業となった。そしてインターネット上で作品を発表する人たちに中心はシフトしている。今もテレビの影響力は莫大に大きいが、中心にテレビはない。既に遅いのである。

 

産業は時代の流れの中にあって自然的に落ち着く場所に向かう。それに抗う事はできない。そしていつも一部の好事家たちの手によって、時に王族だったり、時に貴族だったり、時に幕府だったり、時に商人だったり、時にプロデューサーの支えで成り立ってきた。

 

ブラック企業の課題は、将来の衰退が予想されるからだ。一過性で稼ぐだけ稼いだらか店じまいするというのならそれでもいい。特殊詐欺ならそれでもいい。しかし詐欺師と言えども生涯にわたってそれで食ってゆく気ならそれでは成立しない。当然である。よって反社、犯罪者集団であっても、本質的にはブラック企業では存続しえない。

 

生活が安定せずにどうして産業化がなりたつだろう。それまで趣味で可能だったもの(手塚治虫のアニメ等)から商業化にシフトせざるえない(サンライズジブリ)。結局、小規模に趣味的にやるか、大規模に興行的にやる道しかない。アメリカ、中国、韓国、インドなどの映画産業がどう成立しているかは知らない。それでも実写だから可能な部分がある。

 

実写ならエキストラは二~三日で解放できる。しかしアニメでエキストラを描くならその期間では無理だ。10秒のモブシーンに一年間も優秀なアニメータを貼り付けなければならない。AIの出現でそれが少しは変わるだろうが。

 

鰯の群れが泳ぐ先がクジラのお腹の中か、オキアミ溢れる海原か、それは自然にまかせるしかないのか。行く先は分からないけど、自然に託して、行く所々で流されながらも自分たちで歩いてゆくしかない。そういう風にして日本の改革は進んでゆく。理念先行でやるヨーロッパやアメリカとは少し違う感覚がある。これがこの国の自然が育てた社会性なのだろうか。