性的欲望もたない「アセクシュアル」 恋愛経験なく自責の念も

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少し調べればアセクシュアルの他にノンセクシャルという言葉も意味が異なるらしい。

 

asexual はギリシャ語由来の否定の接頭辞 a- により sexual を否定する。nonsexual はラテン語由来の接頭辞 non- により sexual の非定を行う。sexual は性的な、という意味だから、a- は性的でない、という意味になるし、non- も性的でないという意味になるのだが、この辺りの英語のニュアンスは日本語と1:1対応していないので、分かりにくい。

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セクシャルというものは恐らく5万年前の人たちは、そう悩みにはしなかったろうと思われる。欲求がないなら、それでそれで構わないという生き方をしただろうからである。

 

逆に言えば、欲求があれば同姓であろうが動物であろうが死体であろうが幼児であろうが構わず行動に移した、またはそれが現在よりも簡単に実現できたであろうと思われる。

 

もちろん、相手の意思や集団としてのタブーは早くから存在していたはずで、誰もが簡単にすべてを実現できたとは思わない。

 

ヒト属の最初に登場した警察官が誰であるか知らないが、我々が抱える悩みの多くは「人がそう定義したから」という側面を持つ。

 

そういうものが極めて社会性に根付いているので、簡単に言ってしまえば、社会は常に自分たちの現在をバックアップして後世に伝えようとしており、当然ながら、そこに善悪というフィルターはない。

 

だが、そこから取り出す時には、現在の善悪という属性を付した形でしか取り出せない。そこに人間に本来備わっている同調性が加わって、自動的に他者と自己との比較を行う。

 

思春期、青年期にはその傾向が顕著であろうから、人との違いには敏感になろう。人と違うことを誇らしいと思うか、怖いと思うか、重要な問題である。このように考える一つの原因に教育がある。正解が極めて狭い範囲で設定された問題としか触れていない日常を送れば、そこからはみでる幅が大きいほど、不安を感じるのは当然である。日本の教育が期間工を育てるのに最適と言われる由縁である。

 

学校で教える内容については、常に100点を良しとする圧力がある。掛け算の順序問題でさえ、その根底にあるのは、そのような理由で×とされ点数が下がることは許容できないという要求であって、それ以外の理由は後付けの類だ。

 

しかし、教科によって違いがあるものの、今の教えている内容のうち、100年後にも変わらないのは50%程度であって、残りの30%は恐らくそのまま、最後の20%は書き換わっているだろう。

 

ということは、残り20%が理解できない子供は実は聡明かも知れないという話があって、その子供にとって間違いが自明なものを間違っていないと教えられれば、そりゃ混乱して意欲を失い、ついには未来のノーベル賞受賞者を(別に偉いってわけではないが)のうだつの上がらないサラリーマンに育てているかも知れないのだ。

 

学業など50点を取れば十分。75点なら最高であって、それ以上の点数を取るようでは、ちょっと体制に従順すぎて将来を危ぶむべきであろう。真面目さは重要な人間の徳目であるが、自分で考えることを止めるようではいけない。人は配置、と語ったのは武田信玄だったと思うが、とかく人を使うには、どう配置するかという問題があって、配置する以上はレイアウトを持っていなければならない。

 

いずれにせよ、同調しようとするから違いに気づく。ホモ・サピエンス・サピエンスは違いを見つけるのに長けた種だから、違いがあればそこに執着するのは自然である。

 

様々な違いが、多く人類を前進させる力の源泉となった。同時に様々な悲劇も生み出した。肌の色、人種、民族、文化、そして性。女性が今も社会的にはアンフェアな立場にあるのは確かであろう。少なくとも、男女の違いを見分けられない人間は極めて少ない。それは2歳児でも判断できる違いなのだ。

 

だから恋愛感情というものと、恋愛における肉体的性と、快楽としての性と、様々な視点から人を分類するのは簡単なのである。しかも、恋が性欲の効率的な消費行動にすぎないとすれば、次は愛の登場である。

 

そもそも愛ってなんだ、男女もあれば、同性もある。相手の星系を滅ぼした後に愛と叫んだ人もいる。家族もあれば、会社もある。民族もあれば、国家もある、人類といったかと思えば、動植物もある。鯨だっている。二次元だって存在する。

 

エヴァンゲリオンという作品はこの愛についての考察ではなかったか、と考えたりもする。愛だ、愛だと叫んでいるが、本当の愛ってなんだ。ヤマアラシが近づけないように人は触れ合うことなどできないのではないか?もし人類愛に目覚めたら、そんな状況に我慢できなくて、すべてをひとつにしたいと思うのは当然ではないか。

 

ウナギをこよなく愛する人が、絶滅の危機にあるウナギを食べるのを見ると、この人の愛とはなんだろうと思う。虫をこよなく愛するという人が、網を持って虫を取っては、殺して解剖する。そういう科学者が昆虫愛を語っていると愛とは殺すかと思う。出荷される豚を我が子という迄にはどれだけの葛藤を乗り越えなければならなかったか。今も愛されていると語ったAKBのストーカーは逮捕された。

 

愛など自己満足でいいんだろ?と言われればそういう気もするし、でも相手もいることだから、と思うなら、なら俺一人を愛する分にはどうしようが問題なかろう、という考えも生まれようが、人間は社会的動物だから、俺一人の命は、俺一人の勝手気ままにはできない。家族、友人、コミュニティ、そういうものから完全に離れるのは難しい。ロビンソン・クルーソーという作品は、そういう発想かもしれない。空想の中で毎日のように他人と会っていたはずである。

 

いずれにしろ、性と恋愛というのは分離できそうだし、もし分離しても良いなら、更に細かく分類だって進むだろう。愛の一言で片づけられるような恋愛などただのひとつもない。性的衝動であったり、依存であったり、転換、歪曲、投影、理想化、抑圧、どのような気持ちからその愛は生まれたか。ホルモンか?化学物質で生じる愛だってあろう。ストックホルム症候群だってひとつの愛の形だろ?

 

人間には感情というものがある。民族、文化、時代さえも超えて、我々は感情をとっかかりにして人間同士のコミュニケーションを続ける。二千年前の人だって笑っていただろう。何が楽しかったかは知らないが、確かに楽しかったに違いない。もちろん、感情を持つのは人間だけではない。地面で跳ねているミミズにだって感情を感じる。

 

それを分離し分類してゆけば、多くの人に見られるパターンと見られないパターンが現れるのは当然だ。その中で、他の人が持っているものを自分がもっていない(かも知れない)と考えるのは恐怖だろう。フロイトはまず男女の間で体の違いからこの感情を分析してみせた。

 

他の人が持っていないものを持っているのは多く、ギフトと呼ばれる。確かに学術や芸術でそういう才に恵まれた人もいる。だが、同様に、小児性愛というギフトをもらった人もいる。

 

一方で他の人が持っているものを持っていないことに引け目を感じる人もいる。性的な愛情を感じる能力を持っていないと考える人がいる。同性しか愛情を感じない人もいる。

 

タイガーウッズのように恋愛問題を乗り越えなければならなかった人もいる。あれはもっと根深い人種や文化というアメリカ文化そのものとの対峙だったのだろうと思ったりもする。

 

だが、空気を読む能力を失っているからこそ、仕事で最高のパフォーマンスを発揮する人もいる。相手に同調できないから、優れた精神科医になった人もいる。持っていない事もまたギフトのひとつである。

 

ある、とない。これを数学的に表したら0という考えになる。その中には負のギフトというものもある。もちろん、この正負を決めるのは神ではない。我々の社会である。

 

もし神が食欲を感じないギフトを授けていたら、と考えるとゾッとする。中国では空腹しか感じられないギフトをもらった少年が死亡したそうである。痛みを感じない人は骨折しても気づかない。

 

プログラミング的に考えるならば、恋愛感情という関数ポインタは誰もが持っている。ただ、NULL(ナル、ヌル)な人もいるだけだ。

 

衝動が起きて悩む人もいる、衝動が起きなくて悩む人もいる。

 

持つと持たないということ。蛇は手足を持たない。そのために人に忌み嫌われてきた。チンパンジーでさえ蛇を嫌うそうである。その蛇もエデンの園には住んでいた。