「あたし、おかあさんだから」の歌詞、母親の自己犠牲を美化し過ぎと炎上

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歌には次のように、気持ちが書かれている。

あたし おかあさんだから

眠いまま朝5時に起きるの
あたし おかあさんだから

大好きなおかずあげるの
あたし おかあさんだから

あたしよりあなたの事ばかり 

 若い時の自分と比べて好きなことを我慢していると語る。

もしも おかあさんになる前に

戻れたなら 夜中に遊ぶわ
ライブに行くの 自分のために服買うの

それ ぜーんぶやめて

いま、あたしおかあさん


それ全部より おかあさんになれてよかった 

 それでもいまの自分がいいという感じで終わる。

 

この歌を巡る批判や賛同は個人的にはどうでもいい話である。雰囲気で言えばこの歌は「いっぱいのかけそば」の蒸し返し程度のものと感じている。甘っちょろく、非現実的で、子供や母親を使って、いい出汁を取っているという感じだ。七味をすこしかけたピリリ感である。

 

この歌の否定性は「~だから~した」という構文に理由があるだろう。「AだからBをした」という行動が羅列されており、行動のすべてが無理してやっていたり、我慢しているものばかりだ。その原因を「お母さん」に求めている。

 

「お母さんだから」ということは、勿論、お母さんにならなければ、そうではなかったと明言しているのであって、これにより、この言葉は親子関係の切断可能性を正面から主張していると考えても差し支えない。

 

この歌から、お母さんという立場から逃れられない悪夢のような脅迫観念を感じる人もいるだろうし、もしお母さんでなくなれば子供への愛情も消えてしまうのではないか、という恐怖を感じる人もいるだろう。かつて献身と犠牲は人間の尊ぶべきものであったが、この歌は献身か、それとも犠牲か、一部を切り取ろうとしてはいないか。

 

この歌はそのあらゆる原因を「お母さん」に求めている。

 

もちろん、親子の愛情は、そんなに単純なものではない。人の数だけ、親子の関係がある。

 

人ぞれぞれの数だけある。そこで人間はなぜ子供に(自分であれ他人のであれ)愛情を感じるのかなど不思議で十分である。メスライオンが小鹿を保護した話もある。

 

生物学的に研究すればそこにホルモンの影響が見られるだろうし、遺伝子レベルで記録されている本能も見つかるだろう。人間がそうなるように作られていると言ったところで、だからどうした、と答えるしかない。

 

野生動物でも観察されるように、ニグレクトは頻繁であるし、オスの子殺しは一部の動物で頻繁に見られる光景である。

 

人間とは何であろうか。昔、小泉純一郎靖国神社への参拝について、私人としてか、公人として参拝したのかと問われ、人間小泉純一郎として参拝したのだと答えた。その言に従うならば、わたしはお母さんだけの存在ではない、と感じた人も多いのではないか。勝手に決めつけてくれるな。

 

なぜそう感じるのか。この歌は他者に対して何かを強制しているものではない。あくまで個人的な感情を歌っているものである。なのに、なぜか受け取り手は何かを強要されているように感じられるのか。

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ぼくは親に人生をあきらめさせるためにうまれてきたなんて思いたくないし
親にもできるだけ好きな事をしてほしいし、
子育ての負担は父も母も同じであってほしいし、
女子としては、そういう親をみて育つ方がずっと将来の希望や夢が持てます。

 

人間は複雑だから幾つもの側面を持つ。子供には絶対に見せられない時だって沢山ある。それをプライバシーと呼ぶのだと思うが、あたしはお母さんだけじゃない。妻でもあり、子でもある。わたしを短絡な一部にしてくれるな、と感じたのか。

 

なぜこの作品は他者への強制力を持っているように感じるのだろう。どこにも明示されていないのに。

 

まず第一に、誰かを愛するのに理由が必要なのか、原因があるのか、という話がある。実際の所がどうであれ、人間は愛については理由も原因も欲しない。なぜなら理由がある愛は、他の理由によって愛を失うからである。彼女の眼が好きだという人は、彼女が失明したら去ってゆくのか。

 

現実問題は別にして、その問いにYESという人はいないだろう。だが、どれほど愛する二人でも、三年で破局する人もいれば、50年も連れ添う人もいる。

 

子供に対して愛情深い人もいれば、親とどうしてもそりが合わず離れて暮らしている人もいる。憎しみを持ち続ける人もいる。そういう人たちにとって、この歌はどう聞こえるだろうか。

 

お母さんと思っていたから苦しかった、という子供だって居るはずなのである。お母さんと思っていたから苦しかった、という母親だっているはずなのである。

 

なぜこの歌は自分に向けて歌われていると思ったのか。これは父親の目線である、と感じた人もいたのではないだろうか。母親の愛情の強さを分かっていない人が、分かった気になって歌っていると感じたのかも知れない。

 

そこに、男からの強制力を敏感に感じたとしても不思議はない。だから、反感を感じたのではないか。こんな感じ方は決してしないという人工的なものを感じたのかも知れない。そしてその人工的なものの奥底から、圧倒的な圧力を感じたのではないか。

 

批判を開始した人たちはこの歌の奥底にあるものに警戒したのであろう。ひとつの理想を全員に押し付ける強い圧力がある。だから、この歌ではふたつの感情が沸き起こっている。ひとつは、この価値観が強いる全体主義に対する反感である。もうひとつは、この歌が示すお母さん像への好感である。全体主義に対する反感と、個人的嗜好では対立のしようもない。

 

この間に争うべき理由は何もない。共通点さえ見いだせない。それはパクチーの好き嫌いの論争となんら変わらない。ただ「おかあさん」という言葉には「猫の飼い主」とは全く違う何かがある。その重みがこれだけの話題を生んだ。

 

そこに短絡に、ただ、ひとつのお母さん像を強制しようとする圧力が感じられる、そういう恐怖や懸念が蔓延したのではないか、それは日本だけの話ではない。世界中で女性が感じているように思われる。

 

なぜこの社会はこれほどの男性優位なのか。たくさんの考えがある中で、この本に書かれている内容が面白かった。それが正しいか間違えっているかという話がしたいのではない。正しいかどうかは分からない。ただ、知っていても損のない面白さがある。