元ジブリP西村義明氏、英紙の性差別発言について謝罪 「映画を作るのに性別は関係ありません」

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この人の愚かさはこれだけ危険そうな話題に、何の臆することもなく、飛び込めてしまう事だろう。

 

個人的な思想だの、思い入れは信頼できる仲間とか、会社の中だけでやるべき事で、公共のしかもインタビューなどでする事ではない。

 

そういう場所では当たり障りのない話をするか、何か特に信念みたいなものを語りたければ、そういう風に持ってゆくべきなのだ。監督と性差の関係を研究する事が本当に信念であったのならば、まぁ、おそ松さまという感じだ。

 

世界の多様化に於いて、本人にその気がなくても、差別的に捉えられたり、また、差別的側面を内包しているが故の発言ではないか、という風に捉えられるのは、これはもう仕方がないのである。

 

生来、西洋人などが差別をうんぬん語れるわけがなく、おまえら過去500年の殺戮の歴史をまず、片づけてから出直して来いと思わないでもない。しかし、その恐怖すべき殺戮からか、次はイルカを救えと言う人も登場するのだから、なるほど、人間とはかくも多様なものである。

 

どちらにしても、ステレオタイプなのである。この地球に70億の人間がいる。その全ての人に当てはまる事など、そうそうあるはずがない。下手をしたら、その中には次の類人猿というべき進化した種までが含まれているかも知れないのである。想像してみたら、とにかく70億のひとりひとりに聞いてみた事もないのなら、一般論は必ず例外がある。

 

単一と言われやすい日本でさえ多くの文化があり、歴史をさかのぼればとても沢山の民族、地域、文化が入り込んだハイブリッドであって、単なる雑種である。それでも、今の所、単一系と思えるのは、国の成り立ちがわりかし早かっただけの話であって、それはもう、江戸時代に鎖国して、固有化の方向に行っただけの話である。

 

更に言えば、江戸時代は数百の諸藩がみな独自色を持っていて、藩が違えば言葉も違うなど、多様性が高かった。単一性が強まったのは、富国強兵による明治政府の教育が理由であって、西洋列強とやりあうには一枚岩が都合が良かっただけである。

 

つまり、中央集権という制度によってのみ、我々は単一系と思い込んでいるだけの話であって、畢竟、実際の所、話は単純ではない。

 

複雑であるものを単純に見たり、ほんの少しの集合で通用する事を一般論と見做したり、前提条件をずべて取り外して原理にしてみたりするのは、人間の癖のようなもので、そう捉える方が分かりやすいだけの話である。

 

結局、この人の何が愚かだったかを指摘すれば、危険極まりない話への嗅覚がとても馬鹿になっていたという話であって、更には、そんなステレオタイプの話が通用するわけないじゃないか、というだけの話である。

 

差別は常にステレオタイプである。もう何ひとつ例外なく。とすれば、それが差別であるという指摘には、単に、そんなの例外が幾らでもあるじゃないか、という反論が可能で、そこに、そんな事も知らないのか、という驚きとか呆れが加われば、いっちょ前の差別の糾弾の出来上がりである。

 

当然ながら70億人もいれば、全部が違う。違いすぎてはグループを作れなくなるから当然、差別という概念も生まれない。そこでグループを作るから起きるわけで、差別という考えには最初からステレオタイプが内包されていたという訳である。

 

差別とはある集合が集団化した上で他の集団を区別から所から発生する。全てが等しく違う状況では差別は起きない。全てが等しく同じ状況では差別は起きない。グループ化する事で初めて発生しうるわけであって、ではなぜグループ化するかと言えば、その方が話が簡単にできるからであって、

 

当然ながら、話を簡単にするには幾つもの something を無視したり、切り捨てたりしなければならない。そのぽっかりと空いた空白の中に、何らかの感情が入り込めば、簡単に差別となって表出するであろう。

 

だからもし許容できない差別というものがある時、そこから遠く離れるには、グループ化した構造を一度、解体してみるしかない。その上で、差異を比べてゆくしかない、と思われるのである。

 

いずれにしろ、そこまで深く考えた発言ではないからこそ、普段からこの人はどういう考えをして来たのであろうか、と、深読みされてしまうのである。そこが恐ろしい所であって、他意も差別も本人には自覚がないのである。差別に自分を移す鏡はない。

 

もちろん、この人自身が高畑勲宮崎駿の二人しか知らないのに、よく監督論などを語る気になったものだと感心できるのである。

 

エベレストとマッターホルンしか知らない人が、世界中の山はね、とか語り始めたら、それはちょっと、おいおい、と思われて当然ではないか。