オスカー女優ハル・ベリー、批判を受けトランスジェンダー役を降板 「引き受けるべきでなかった」と謝罪

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ポリティカルコレクトネスpolitical correctnessという動きは、社会が自然に形成される過程で生じた理不尽な不平等を解消しようとする動きである。不平等は是正しなければならないという考えと、これまでさんざんに略奪してきたのだからそろそろ遠慮しなければならないという考えが背景にある。

 

もちろん、アメリカと言えども、差別に対して何をすればいいかが分かっていないから、こんな運動でもしてお茶を濁しているのである。どうすれば社会が変革できるか、誰にも分からない状況で、とりあえず、目の前の不正でも是正しておこうという話である。決して、この運動の先に差別のない健全な社会が来るわけではない。

 

差別の反対は恐らく平等ではない。しかし、差別と平等は対比される概念に見える。

 

平等を尊ぶのはギリシャ時代からのヨーロッパの伝統である。ヨーロッパの歴史は、平等を拡張する歴史と呼んで差し支えない。

 

人間は生物学的には少しずつ違うので、違うと考える方が妥当である。それを無理やり平等と考えるのはそう単純でない。だから何を平等と呼ぶのか、この定義は人為的なものである。自然に同じものはない。この世界では、あらゆるものが違っている。そこに平等に扱えという主張が発生するためには、何かが存在しなければならない。

 

平等と対比できるのは不公平という考えであろう。不公平に扱われた、という感情が平等を求める所に通じる。そこで不公平と感じるためには何が必要かという話になる。

 

つまり、そこには量化によって比較できるものがある。AとBは同じなのに、A=Bが成り立っていない、A<BまたはA>Bになっていると認識されるから不公平と感じるのである。

 

例えば、同じ仕事をしたのに払われる給料が違う。量化されるのは労働力と賃金の関係という事になる。

 

そこでの平等は何かというと、例えば労働時間であろうか。同じ時間を働いたなら給料は同じにして欲しい。アニメータは描いた枚数で対価が支払われる。果たして、そで本当に同じと考えらえるか。量化して比較する時、そこには量化せずに捨て去ったものがある。

 

時間で比較すれば、仕事の質は捨てられる、それだって不満が出る理由になる。能力で評価して欲しいという気持ちもある。能力は量化が困難である、だから結果で評価すればいいではないかという結論になったりする。しかし多くの仕事は結果が直接的に量化できるものではない。すると上司に気に入れられる方が出世が早かったりする。不公平だ、あいつは太鼓持ちだと指さされたりする。コミュニケーションは一般的に評価されにくい。

 

こうして、様々なものが「平等」ではスパッと切り取れない事に気付く。だが、だからといって不公平な現状を受け入れろという訳にもいくまい、そんな所で足踏みするくらいなら、例え間違ってもとりあえずやってみるか。

 

やってみれば、ダメな部分も見えてくるだろう、そこに本当の解決の糸口が見つかるかも知れない、それがアメリカのやり方であろう。さすが禁酒法を国是とした国である。それくらい、やってみないと分からないのかという思いと、やっぱりやってみないと分からないかという思いになる。

 

平等について考える場合、何を量化して比較しているかを明らかにしないといけない。更には、評価されているものが、常に対価が発生している事にも注意すべきだろう。すると平等とは交換する時の価格の妥当性という話になる。

 

それは適正な価格か、それとも高すぎるのか、それとも安すぎるのか、それを見直す時期に来ている、という事はこの動きは資本主義の根本まで見直す運動という事になるはずだ。

 

ポリティカルコレクトネスとは、価格の妥当性に関する話という事になる。しかも単品の値段ではなく、その人がもっている資産も含めての評価という事である。

 

つまり、さんざん稼ぎやって、まだ欲しいのか、という話にとても近い。この仕事は、お前ではなく、他の人に回してやれよ、というどこかで聞いた話になる。

 

つまり、ポリティカルコレクトネスとは、日本が築き上げた談合というやり方なのである。それをアメリカ式にやっているに過ぎないという結論になる。