「安い給食」はもう限界か 相次ぐ給食業者の倒産 背景にある問題点

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かつては出来ていた事が出来なくなっている。どこでどう変わったのか。それを分析する手法のひとつは経済学だろう。貧困は今だけの問題ではなく、昭和も戦中も戦前も明治もあった。

 

昭和維新の根底に貧困があったのは確かだと思う。格差は今以上であったろうと思われるし、それらの問題意識が共産革命と近くなるのは出発点が同じ以上、当然と思われる。

 

食べれないという話がかなり払拭できたのはどの時代であろうか。恐らく最後のひとりまで居なかった、根絶したは有り得ない。恐らく、黙したままどこかに隠れていた。

 

そういう形で誰かが負債を一身に受けていてくれたと考える。そういう人達への不公平を取り除く事は正義である。事故が起これば再発を防止し、設備し、等しく整え、サービスを受けれるように社会改善を進めてきたはずであった。

 

それがいつの間にか立ち行かなくなった。昭和の時代には少なくとも出来ていた事が、今の時代は廃止するしか目途が立たなくなった。何故か。その理由が分からない。少なくとも従来と同じコストでは出来なくなっているのは確かだ。その主な原因が人件費だと言う。

 

企業が効率化を叫ぶほど、社会全体の効率化は失わるものらしい。燃費の悪い体にどんどんなっている。従来は1リットルもあれば50kmは走れていたはずなのに今では3kmさえ怪しい、そんな感じだ。

 

通常、それをインフレと呼ぶ。しかし日本社会は長くデフレと定義されている。昨今は内容量を減らし続けていたのだから実質値上げである。それはインフレのはずである。しかし給与は上がらない。市場が持つ総資産は減少していたから、スタグフレーションではないか。

 

日本社会では、談合や天下りを廃止した辺りから下降期に入った。これは力を失った日本経済に自由競争を導入する事で企業の競争力を復活させようとした小泉改革を境にする。

 

経済に力を付ける事で景気回復の起爆剤にしようとした。しかし、実体は自由競争ではなく規制撤廃であった。それは安いコストで市場に参入できる新自由主義の導入に過ぎなかった。

 

規制はないが、罰則もない。そういう社会で企業は利潤の追求に邁進できた。労働者の権利など契約の前では念仏である。労働者から収奪する以外のビジネスモデルをこの国は持てなかった。

 

それでは経済は決して強くならない。競争力も伸びない。強盗に幾ら長けてもそうなるはずがない。ただ、税金にたかる事が上手くなっただけである。税こそが最大の利益配分である、そう認識されただけである。乞食の精神でどうして国外の企業と渡り合えるだろう。そのうま味にありつけない者は真面目に小金を稼ぐか、詐欺に走るかである。市場は国民である。奪えるだけ奪えばいい。

 

そのような経済構造で日本経済は復権を目指した。そういう顔をしていた。だが実態は国民の資産を略奪する合法化に突き進んだだけであった。税金が生命線となる経済しか構築できなかった。

 

これは少子化によって経済力を失うと考えられる国家の経済モデルとしては代表的なものと思われる。少子化に対する対策には他に移民があるが、恐らく労働力だけの問題ならAI等の技術で解決でき将来的には人を必要としない。

 

しかし頭数が小さい事は市場のパイが小さくなる事を意味する。必要なコストに対して多くの企業は損益分岐点を持つ。それは多くの場合は規模で決定される。これ以上の数が売れなければ赤字である、という点で、少子化は決定的にマイナス要素である。

 

市場規模は構成メンバの所得×人数で決まる。このどちらも減少しているのが今の日本経済だから、規模の縮小は避けえない。数人の億万長者が生まれた所で市場は巨大化しない。どれだけお金を使うかは、市場内で動いている瞬間の総量である。これは風圧に等しい。風圧がいくら大きくても全体が小さいなら市場も小さい。

 

生産=供給はIT技術、ロボット技術で改善できる。そのうち人間の労働者を必要としないのは自明だ。しかし、需要は一般的に人間の数に比例する。

 

そして生産に必要なコストと需要によって得られる利益の関係において、人数が増加した時に得られる利益の量は一般的には生産コストを上回っている。つまり数が多いほど売れば売るほど儲けが出るのが現在の経済モデルである。

 

この右肩上がりを前提とした生産システムは、市場の縮小、コスト高騰、競争相手増加による低価格圧力によって体力的に疲弊するのは自明と思われる。それについて公的に資金を投入したくても全く同じメカニズムによって市町村にも税収がない。

 

莫大な税金もどこかに消えている。ウィスキーではあるまいに、天使の分け前が多過ぎるのである。樽を開けたら殆ど残っていない状況である。所が国の支出を見ると無駄があるようには見えない。せいぜい国債の利子が1/5に迫ろうとしている程度だ。

 

利子の支払いというのは、誰かにとっては寝てても儲けとなるが、実質的には生産性には寄与しない0であり、国力の増強には寄与しない。かつ利子の分だけ、使える自由度が減る為、使えるオプションも減少する方向で働く。

 

国債の大部分を持っているのは日銀とは聞くが、日銀に払った利子はどこに行くのか、そもそもお金を発行している日銀が政府からどう利子を受け取るのか。その利子は何に使うのか。国債は単なる紙切れだから政府が国債を返してもらったら燃やす。それでその国債はおしまいである。

 

日銀はお金を発行する以外の役割はない。だから利子を貰っても何もする事はない。本質的に国債もお金も倉庫に積むだけが仕事である。火事で燃やしてくれれば払わなくて済むから万々歳だとは思うが、そんな事をするガッツある総裁の話は聞いた事がない。

 

日銀が受け取った利子は帳簿に付けて終わるのか。日銀は基本的には無限の貨幣を発行できる。今更数十兆円の利子などはした金である。それでも規律と言って無限に印刷しないのは円の価値を大きく揺らぐからだ。

 

経済は不明な事だらけだ。だからよく知るものは甘い汁を吸う事ができる。しかし、そういう人は誰も現在の日本の経済を上向きにする事はせず、私利私欲を最大限にしようとしているだけである。もしそうでないなら所詮は日本経済を立て直す事もできずに、主張するばかりである。日々刻々と貧富の格差は拡大し、世界での競争力は失われ、状況がよくなる兆しはない。

 

少なくとも産業構造は大きく変わりつつあるように見える。昭和の方法が通用しないにしても、昭和が提供していたサービスさえ維持できないなら、国力は低下しているに間違いない訳で、それに関する決着はまだ到来していない。この国の経済はどこへ向かうのか、の問題ではない。我々はどこへ向かう気か。