橋本聖子氏に絞り込まれた事情 他の候補者たちのネックとは

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怒られた子供がおそるおそる答案用紙をもって再提出しようとしている風景に見える。日本人のメンタリティはその程度だろう。恐らく、この人事を決めようとしている人の半数はどうしてこうなったかを説明できない。森の発言の何が問題かが分かっていない。未だに疑問符を抱いている人もいるだろう。本当の事を言ってあんなに叩かれるなんて森さんも気の毒だね。

 

もちろん、女性蔑視などの問題ではないのである。どんな人だって差別くらいする。無意識の差別もあれば、意識して行う人もある。その何が悪いのか、悪いのはあっちじゃないか、あいつら劣っているんだから、と本心では思っている人も居る。

 

女性差別に激しく怒った人だって、明細に詳細に見てゆけば差別心など幾らでも見つかるだろう。お金を持ってない奴はカスだ、見た目の悪いやつは底辺で当たり前だ、私は努力したんだから、それくらいの発言は平気で聞けるだろう。

 

何が差別で何が差別ではないかに厳密な境界はない。人の心ひとつ、時代の雰囲気一つで決まる。そんな事はみんな知っていて、どうしても我慢できない人が、バスに乗り込み、水飲み場の入ったりした。どんな激しい仕打ちを受けようと私は引かないと決意した人が時代を切り開く。その後ろで彼女を警護した警官たちにはもちろん白人も含まれていた(と思う)。

 

そんな単純な図式で語れれば如何に楽だろう。女性は話が長い?一般論ならそうかも知れない。しかし、正確に言うなら、話の長い女性も男性も幾らでもいる。馬鹿馬鹿しい。これは誰かを笑わせようとした言葉か?

 

酒の席なら、身内の席なら、仲間同士のバカ話ならスルーもされる話だ。80も超えた老人がいまさら偏見のひとつふたつも持っていないと思うほど世間知らずでもない。

 

だから、女性蔑視の問題ではない。今回はたまたまそういう偏見が表出しただけの話だ。だから問題はその偏見ではなく、それを公の場でしてしまうその判断力の問題なのだ。

 

そんな人間がコントロールしていてその組織は本当に大丈夫なのかという話なのだ。この人は、ある限られた集団の中では卓越した交渉力と秀逸な調整力を発揮する。それはよく分かっている。その手腕に助けられた人、企業、組織は幾らでもあるだろう。

 

しかし、森喜朗から始まった幾つかの発言から、数例の高齢者たちの発言を帰納して、老人たちではもうダメだと言う一般論が形成されるのではないか。少なくともマスコミはそういう流れを生むような記事の出し方をしている。

 

個人の発言がいつの間にか世代間闘争に変わり、新しい年齢差別が生まれるのではないか。ひとつの差別の代わりに別の差別が生まれるのではないか。

 

オリンピックは世界中が注目する。特にコロナ禍である。選手はやりたいだろう。ピークにある選手は特にそうだろう。スポンサーだったやりたいだろう。これだけ苦難の時代である。希望という広告力が莫大な利益をもたらすに違いない。幸い、外には出るなが合言葉だ。オリンピック期間はなにとぞロックダウンしますように。

 

個々の事例を帰納して一般論に展開してしまう事も、その発言が現在の社会において問題があるかという事にも気づけなかった。嗅覚が衰えたんじゃないか、それが問題なのである。そして、今でもきっと何が問題であったかを心底では分かっていないんじゃないか、そういう危惧が残るのである。

 

女性蔑視など持っていても構わないのである。特に男の世界だけでのし上がってきた人ならそれもむべなるかな。偏見が故に悪人などと決めつける必要はない。あんな可愛い目をした鹿を撃ち殺すなんて残酷だと語った人間が何をしたか。

 

自覚がないのも仕方がない。人生とは偏見を洗い流す途上で終わるものだ。だが、この発言は入試でいえば、幼稚園レベルの簡単な問題だ。それくらい簡単な話だから、話しても冗談と受けとってもらえる、大丈夫だと思ったのかも知れない。

 

だが、それがどうやら致命的だった。こんな場所でそんな発言をする奴にオリンピックを託してもいいのかとみんなから言われた。特にみんなストレスを抱えている時期である。正義を行使したがっている。

 

オリンピックなど明日消えても僕は構わないが、その理想、理念、そしてこれまで積み重ねてきた美しさというものは、ある意味では偏見や差別との戦いだった。勝敗以外の何ものによって人を区別しない。その区別さえメダルだけである、それだって差別と言われればそうであるが。

 

男子と女子が平等に戦う競技は囲碁や将棋など一部の競技を除けばない。やらなくても最初から勝敗は決まっているから。ボクシングなどの競技では体重別で区別する。これもやらなくても分かっているから。

 

人種や文化、経済力を持ち出さなくても、肉体はひとりひとり違うのである。生まれつき、遺伝的に強い人もいれば弱い人もいる。

 

その人たちを単純な、今の視点でみれば原始的とも言える条件でカテゴライズして競わせる。絶対に平等な戦いではない。知らないだけで沢山のハンデを互いに持っているはずだ。多様性はこういう場合に難しい。機械ならスペックをもう少し合わせられるものを。そういう意味ではオリンピックは不利など百も承知、それでも挑むという物語の軌跡かも知れない。

 

俺が優勝するだろうと思っていた人が負けた例も沢山ある。やってみるまで分からない、そこだけが誰にとっても平等だ。それでもその競技をその結果を称える。二番なんか誰も覚えていないと言う人のなんという贅沢、金メダルをとっても誰も覚えていない競技のなんという多さか。

 

オリンピックの90%は経済活動なのである。だが残りの10%に人々は何かを見出している。そして今回の発言は、経済活動ではなく、残りの部分に対して致命的であった。我々の理念を歴史を貶めるのか。

 

もちろん、実務につく人たちは頭を抱えているはずである。彼なくして本当に組織が機動するのかという話だ。彼が抑え込んできた経済的利益にしか興味のない連中はたくさん群がっている。利権を如何に強力に抑え込むか、それはそう簡単な話ではない。だが、それは経済の範疇である。経済的に如何に有用な人であっても、理念でダメならダメだ。少なくともオリンピックはそういう祭典であった。

 

テストの再提出で、女性なら〇がもらえるかなぁと恐る恐る出そうとしている。だれが好き好んで火中の栗を拾うか。今回の女性の候補者だって、どちらかと言えば男たちから頼まれて祭り上げられようとしている。

 

反対されそうな事を言うためだけに女性だからという理由だけで大臣に指名されている人は幾らでもいる。それを甘んじて受けていれる人もいる、それだってglass ceilingを打ち破る方法のひとつだと信じて。これでは狙っている〇が違う。