山里亮太、“大炎上”とくダネ宋美玄氏にイケメン対応

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これらの記事はすべて山里亮太に関するものだが、彼の力量というのは、この数年、上がりこそすれ劣ったりはしていないので、これらの興味はすべて蒼井優にある。山里が選んだ彼女ではなく、彼女が選んだ山里に興味があるという話だ。

 

だから、興味の発火は蒼井優の側にあるはずなのだが、誰もが興味の終点は山里亮太になっている。この不思議な現象、蒼井・山里の指向性は実に面白い。

 

社会学を学ぶ人は、ここに様々なものを見いだす事ができるだろう。女優>芸人というヒエラルキーにおいて、山里がイニシアチブを取り、全体をコントロールしようと努めている。その力量に蒼井優山崎静代も信頼して任せている構造がある。それが男女差によるものなのか、どうかは知らない。彼女たちは後ろに立ち、彼が完全にガーディアンとしての役割を担っている。鉄壁という言葉がぴったりだ。

 

彼の強みは全てをプロレスに変える力だと思う。不毛な論争も、冗談交じりの悪ふざけ(いじめ=傷害罪)もプロレスに変換して見せる。それを受けの美学と書く記事も沢山見た。

 

マウントをとらせて下から関節を決める 

 

もちろん、プロレスは一人では出来ないものである。もちろん、プロレスは相手の個性を殺しては成立しない。もちろん、プロレスは個性を打ち殺しては詰まらない。彼の言葉には、相手の悪意さえもリングの上でプロレスにしてしまうクレーバーさがある。

 

それはただひとつの力。「大丈夫ですよ、僕がちゃんと受け止めていますからね。」受け止めている以上、それは暴力じゃなくてプロレスになっている。三沢光春の悲劇もあるけれど。

 

芸人の最も優れた力量のひとつに、突発的な事件への対応力がある。これは普段から舞台で観客の反応に臨機応変する力、生放送ですべてを笑いに落とし込もうとする目標の明確さ、参加者全体で阿吽の呼吸で個々が全体での役割を瞬時に把握する明察力の凄さ。

 

どのような芸人でも鉄板の話術を持っているものだが、個々人の力量だけを見れば、そう大きな違いはない。ある程度以上の力量を持つ人は笑わせるだけなら簡単なはずだ。だが、笑いを連続させること、連鎖的に拡大させること。これは彼らの力量をもってしても難しいだろう。

 

特に現在のバラエティは、流動的な組み合わせで成り立つ。従来の野球のような固定的なオーダー(漫才などを次々と発表してゆくスタイル)ではなく、サッカーのような試合中に目まぐるしく変わるポジション(MCがいて雛壇のあるスタイル)に変わってきた。

 

個々の最大の爆発力よりも、流動する中でのベクトルの合成みたいなものが主流になっている。そういう中で、彼らは誰々がいるから、今日は自分がはめを外しても止めてもらえる、ここは誰それがいるから、自分が抑える側に回る、のような役割の受け渡しを頻繁に行っている。

 

そこでの役割は、プロレスと同じで、軽く流したり、コミカルに振ったり、悪態をついたり、ヒールになったり、ヒーローになったり、反旗を翻したり、シュートを挑んだり、と多彩だ。だが、誰もが「これはプロレス」という認識によって彼らはある種、相手に全面の信頼を寄せている。相手を信じるからこそ、全力で自分の全てをぶち込む事ができる。

 

誰かが拾ってくれるという信頼がなければ、どうしてボケられるだろう。そういう環境の中で、山里の笑いには、ある種の悲壮感がある(あった)。それはなんか、援軍なしでの籠城戦のような終末感。なぜかは知らないが、どうも根っこの所で、助けがない所を自力で突破してきたような感じがある。そういう修羅場を感じる。もちろん、沢山助けられもしてきただろうが。

 

彼のこれまでの芸人生活は、クズからの更生みたいな所があって、芸にストイックで、相方に厳しく、自分にも厳しく、でも上手くいかなくて、足掻いて、しずちゃんという相方を得て、陰湿になって、妬み嫉みマックスになって、病んで、共演NGになって、でもぎりぎりの所で落ちなくて済んで、自分を救うために他人を傷付けるんじゃなく、自分を救うためには自分と向き合って、周囲にとても助けられて、そうやって、二人で成長してきた。

 

私は山ちゃんに拾ってもらったから、私から解散を申し入れることはない 

 

ひとりじゃ決してたどり着けない場所がある。