『ジャンプ』伝説の編集長が語る「21世紀のマンガ戦略」

www.itmedia.co.jp

 

www.itmedia.co.jp

 

流通と媒体の変化が、あるジャンルに大きな変革を強要する。そんなものは、昔から大変たくさんあって、近代産業によってそれは更に加速した。そのいい例に紙芝居があって、戦後にあれだけ支えた流通様式が、貸本とテレビの出現によってあっという間に衰退する。戦後の物不足から再生し、出版するコストが下がるにつれ、そうなるのは自然とも思える。

 

この流れが加速すれば、更に貸本が廃れ売買に変わるのも当然である。貸して返す、という手間を避け、買って読む。そして売る、または捨てるという流れが出来た。これによって古本という分野が興隆するのも自然であった。大量消費社会からすれば当然の帰結、と今なら言える。

 

どのような流通を経てもコンテンツを乗せている事に変わりはない。だが、多くの傑作紙芝居もほとんど残っていないだろう。貸本で人気を博した漫画も、読む機会はもう少ない。

 

手塚治虫の初期作品が今も話題になっているのが異常なのであって、多くの作品は、ひっそりと今も忘れられる。それでもデジタルになってずっと読める機会が増えたのはよい事だろう?青空文庫みたいになればいい。

 

ここまでは、しかし、漫画という形態の発展に全てが寄与しているし、沢山の生み出された作品は、いずれも紙の上に描かれた、漫画というひとつのジャンルであった。紙芝居にはコマ割りがない代わりに、人が場面を変えながら、音声を付けていた。それは半映画・半漫画というべきハイブリッドの様式である。貸本漫画にはそれが叶わないので、代わりにコマ割りと擬音が発展したのも自然であろう。

 

マンガは小説とも批評とも異なる新しい表現様式として現在のコンテンツ主流にある。この表現媒体が、新しいインターネットとデジタル(画像)というものと親和性が悪いわけでもない。世界中の人々がそれを読む楽しみを知っている。のみならず、発信する楽しみも増えつつある。小説などと同じように。

 

マンガは twitter でも日常茶飯事になっているし、それは素人が書いたものであろうと、読む楽しみを与えてくれる。話題になって出版した人も沢山いる。

 

そうしてくると、これまでの雑誌に載っている「プロの漫画家」の作品というものが、実は漫画の中のひとつの表現形式に過ぎないという事に気付いてしまう。ああいう形だけが漫画ではないし、漫画の頂点でもない。シュルツのあの独特の線を凌駕出来る人は、そうはいない。従来あった、新聞の四コマか、政治批評の一コマ漫画、から莫大に増えた気がする。

 

デジタルに溢れる漫画は、そういう「プロ」の標準などお構いなしで溢れている。「印刷物」ではない漫画だから逆にリアリティを感じる。それが新しい波に見える。

 

プロの作品は、どうこういってフィルターが掛かっている。きちんと書いた冨樫義博の連載より、落す落さないでもめた末に鉛筆書きのプロットのままである方が、よほど生き生きと感じる。アニメーションのセル画によりも、原画の方がよほど人間を感じるのと同様である。

 

今後はコンピュータの発展で、コマとコマの間を補正してマンガからアニメーションを作成する仕組みも生まれるだろう。そうすると漫画とアニメーションの境界さえ消えてしまう。絵画と映画と漫画がきちんと棲み分けているように、アニメーションと漫画もどちらも生き残るだろう。どちらにも良さがある。

 

そして漫画ほど、多くの人が自分を表現できるものはない。落書きは、飛鳥時代の便所の壁にもポンペイの壁にもあった。その落書きを、漫画というスタイルにまで推し進めたのが日本の漫画家たちの功績であって、それを知った世界中の子供たちは、もう落書きなど書く事はない。漫画を書くからだ。

 

デジタルの登場で、新しい表現が開拓される。従来あったページという概念がどうなるかも分からない。絵巻物のようにひたすら流れるようなコマ割りも可能なら、上下、左右、読み進めるうちのどちらに行っても構わない、そういうコマ割りも可能だ。進んだ先によって物語が変わるのもありだ。下に落ちるシーンでは、ひたすら下に向かうコマ割りがあっても構わない。中心が大きなるようなコマ割りだって可能になる。擬音がいきなり出てきたり、読んでいる最中にいきなりコマが変わる爆発シーンだってある。いきなり暗くなるシーンだって可能だ。

 

誰もが個人事業主になれる環境が揃い、本業を持ちながらも、作品を発表する人が増えるだろう。ツールが揃えば様々な表現者が誕生する。当然だ。

 

そういう中で編集者はどう仕事が変わってゆくのだろう。ブラッシュアップする仕事というのは変わらない。ダイヤの原石を磨くというのも変わらない。ビジネスが変わっても本質は変わらない。流通と媒体に合わせればいい。出版社がどういう形になろうと。

 

インターネットという鉱山で始まるゴールドラッシュでは、話題になった人の作品を持って読みたいと誰もが思う。そうなった時に出版社が登場する。発掘し、まとまった量で売りつける。きっと。ゴールドラッシュでは、もっとも儲かったのは黄金を掘る人ではない、シャベルを売る人だと聞いたことがある。

 

もちろん、大量消費社会がこれ以上、続くはずがなく、紙(森林)を大量破壊する本はデジタルの置き換わるだろう。30年後には紙の本を見た事のある子どもはいないに違いない。

 

それでいい。僕たちだって、今さら竹で編まれた本を読みたいとは思わない。パピルスの本も粘土に刻まれた書物だってごめんだ。そういうのは歴史博物館で体験できれば十分だ。