藤田ニコル 日韓関係の悪化が周囲に影「今はつぶやかないでくれ」と言われた人も

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 もちろん、日韓関係の悪化が原因ではない。国際交流にしろ、結婚、経済にしろ、常に右肩上がりなどありえず、良い時もあれば悪い時もある。そして、このケースで問題になるのは、日韓関係に悪化に伴ってわらわらと増加する批判層の出現である。

 

韓国を旅行中の女性が韓国人に襲われた。当地でも批判の激しいこの事件であるが、人はキリスト紀元前から暴力を禁止してきた。もちろん、聖書の中にも暴力はある。神話の中にも暴力はある。

 

それは今の我々から見たらとても許容できるようなものではない。例え神が相手であろうと。ゼウスは果たして核分裂のエネルギーに対抗しえるか、試してみるかと思わなくもない。だが、問題は暴力がいつもある事ではない、どのような時代にも許されない暴力があったという方が重要だ。

 

時代によってパラメータは違う。だが、暴力を忌避するアルゴリズムは常に存在していた。それが重要だろうと思うのである。

 

だから、下らないことを理由に暴力を起こした韓国人を殺してしまえという主張には完全に同意できる。韓国にもそういう風に憤っている人がいるはずだ。だから理解できないのは、被害者の方を嘲笑する勢力の存在である。どういう心理が働いているのか。

 

もちろんそういう発言をする人は嫌韓であろう。すると心理的に以下の推論が働いたと想像できる。

  1. 被害者は親韓である
  2. 韓国と友好など許せない
  3. それが韓国で被害にあった
  4. ばちが当たったのだ
  5. 自業自得である

 

特徴的なのは、以下の構造であろう。

  1. 敵、味方という二元論でしか世界を理解できない。
  2. 敵は滅ぼせばいいという極論しか持てない。
  3. 結果に対して信仰的な願望を持つ。
  4. もっとも簡単な方法を何も考えずに選択する。

 

つまり、宗教的なのである。信仰的なのである。そして、良き信仰がしばしば人を強くしたように、狂信的な信仰もまた、人を強くする。可能ならば、爆弾を抱いたまま、繁華街に出掛けるのである。誰も、死後の世界の証明などしていないのに。

 

ある意味、信じためには、考える事を停止しなければならない。悩んでいる間は信じる事はできない。そして現代社会で考える事を止める最も簡単で安易な方法は、勉強する事を止める事である。

 

オウム真理教に参加した人々の多くが高学歴であることに、当時の批評家たちは驚いたようであるが、学歴社会で成功してきたテレビのコメンテーターたちでは決して理解できないものがあった。

 

学歴とは出世するためのパスポートである、程度の考え方で生きてきた人には決して理解できない現実がある。そういう意味では、疑わない度合いは、何も変わらないのである。だから、彼らには理解できなかった。ただ信じる神が違うだけだったから。

 

SNSの隆盛によって、気に食わない事があるとすぐに炎上するようになった。だが、これは昔と人間が変わったためではあるまい。それまで晩酌や居酒屋で喚いた人が簡単に発言する、それが直接的に届くようになった、というだけの事だろう。

 

文句をいうのに昔なら電話しかなかった時代がネットに変わった。炎上する事は知名度バロメーターである。炎の大きさは知名度に比例する、それ以外の意味などない、そう理解している人もたくさんいる。

 

たしかに、SNSの遺恨から人が殺される事件も起きた(Hagex)。いじめも頻繁する(低能先生)。そのいずれもSNSの登場で初めて起きた犯罪ではない。舞台を変えただけの事象だ。

 

だが、直接的である以上、その影響は大きくなった、その中に一人の狂信者がおり、正義を自覚しナイフを手にしたとき、それは看過できない事件となる。問題は、脅迫が言論を超え、巨大な暴力へと膨れ上がっている事である。

 

「表現の不自由展・その後」が芸術であるか、表現であるかは知らないが、開催を中止に追い込んだのは実際だし、それは既に「表現の自由」を超えている事も意識されなければならない。どんな言論も自由だが、一歩でも行動に移したら、それはもう言論ではないのだ。

 

では言論と行動の違いは何かという疑問が湧く。どこまでが言論であり、どこからが行動なのか、どこに線引きをするのか。と同時に行動に移された暴力をどのように抑え込んでゆくかは、従来の方法では不足しているように思われる。

 

昔なら笑い話だったような事も、今なら犯罪として起訴され実刑を食らうものなどたくさんある。犯罪は日々刷新されているのだ。昨日と同じ行為が今日は裁かれるかもしれない。そして、昨日までの犯罪が今日はもうなんでもない事になる。黒人の自由も、女性の社会進出も、罹患者、障碍者の社会参加も。

 

パラメータは変わる、だがアルゴリズムは恐らく同じだ。日々刷新してゆく社会で、暴力からは逃れなくてはいけない。だけど、それは口をつぐむという意味ではない。いつか誰かが声を上げる。いやおうなく、出くわし、引き下がれなくなった人が。

 

もりしげ先生の『おしかけメイドの白雪さん』が休載した理由

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言論を封じることが問題なんかじゃない。暴力で勝利できる事が問題なんだ。人間の歴史は、それに抵抗する繰り返しだったはずだ。

 

彼らには彼らの正義がある、そして我々には我々の正義がある。その我々がわたし一人であっても、世界中が敵であっても、各人の言論は守られなければならない。