立民・本多氏を党員資格停止へ=不適切発言で処分

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まず議論にタブーを設けるのは良くない。これは大前提である。時に国家は犯罪行為にも手を染める。ロシアや中国やアメリカを見ていれば明らかである。

 

だから問題の所在は常に、どの程度の逸脱ならば自律的に安定状態に戻れるか、そういう機構的な部分にあって、それが壊れればたちまちナチスのような大虐殺は今のEUでも起きうるのである。

 

何十にも施された安全装置と聞けば、普通は癌という病気を思い出すだろう。DNA内にある幾つもの機構が働きを失った結果として腫瘍が発生する。ではDNAの中から癌となる部分を全て取り除けばいいではないか。そうしたら癌は発生しなくなる。もちろん、そうしたらその生物は滅びる。

 

生まれてから成長するまでの間に働いていた部分は通常はある時期で停止する。それによって成長もしなくなる。これが再び動き始めるのが癌であるから非常に問題なのである。それは坂道に止まっていた筈の車がいつの間にか動き出しているだけなのである。なぜ車輪止めが外れているんだ?

 

DNAでさえいつ停止すればいいかはプログラミングされている。その結果として繁殖年齢というものを生物は其々が持っているのであるが、一般的には人間の場合は文化の範疇である。よって、または、DNAのある部分が発動する、脳腫瘍によって神経が圧迫される事で、ペドフィリアになる人が発生する。これは症例でもあるのだ。

 

ならば元々人間の中にはそうであるような機構も組み込まれているはずで、幼児と関係をもつ指向をもつ個体はある場合には絶滅を回避する決定因子になるかも知れないのである。生物の多様性という戦略はそういうものだ。

 

同様に腫瘍によって全く興味を失う人もいる。そのような人も適切な治療によって元に戻る。まったくアメリカのドラマを見ていると知識は刷新され続けるものである。日本のドラマじゃ幾ら見ても馬鹿のままだ。

 

本多平直の問題はまず14歳との関係であるが、同意があっても逮捕されるのはおかしいという主張の根拠はどこにあるのか。もちろん、この地球の色んな地域に行けば、これが当然の場所もあれば許されない国もある。アメリカなら文句なしの法定レイプで10年はくらうんじゃないかな?SVUで見ただけだけど。

 

そういう世界の情勢を知った上で日本ではそれはおかしいと主張するなら、まず世界はこうである。その上で日本はこうである、よって違っていても当然である、というような論理性が求められる。合意があればいいという程度では見識を疑われても仕方がない。まず不勉強である。お前が法を逃れるために立憲民主党はあるんじゃねぇぞ、って話になる。

 

だいたいの先進国では14歳との関係は違法のはずである。子供同士は知らないが、一般的には、愛し合っているは理由にならない。これは子供の定義が係わっていて、それを本当に判断できるのか、できるとして、その判断は本当に妥当なのか、という議論がある。

 

厳密にこの辺りをつつけば、リトルロック高校を思い出す。大人の判断力も大した事ないぞって事である。多分、トランプだってバイデンだって、そう変わりはしない。子供なら当然猶更である。

 

大人の判断も信用できない、かといって子供の自由も当てにならない。じゃ何が正しくて何が間違っているのか。そういう話を深く考えてそれでも14歳と関係したいのか、あと5年くらい待ってろよという話になる。

 

するとやはり、本多平直は何を主張したかったのか、が結論であって、これは立憲民主党の統治思想にまで発展する課題だ。身内に甘いのは自民党でもよくあるので今更であるが、立憲もそうならどっちもどっちが結論。勿論、政治はそれでよいのである。それが良いのである。

 

全く同じ思想、理念、政策の党であっても一党であるより二党がいい。なぜならそれだけで抑止力を発揮するから。もともと、二党であるとは、置き換えが可能なふたつだから成立するのであって、片方を選べば独裁制、もう片方を選べば無政府主義では選びようがないのである。

 

二党制の利点は、本道としての政治は類似していながら相手への抑止力によって、独走を許さない事である、この思想は独占禁止法と全く同じと言ってよい。すると立憲民主党自民党とよく似るのは望ましいという事になる。

 

身内に甘く、問題意識が低く、中にいる人たちも忸怩たる思いをしながら中堅議員が枝野なんざクソと煙草を吸いながらわいわい言っているくらいが健全であろう。明らかに自民党民主党では女性議員の色味が異なる。それがたまたまなのかどうかは知らないが、殆ど同じとは厳密に言えば違うという事である。それが独自の色となって滲んでくる。光の反射を受ければもっと変わって見える。

 

ネットでは本多平直を処分する事は、言論の自由への挑戦にならないか、自由な議論がなくて何の立憲かという指摘をしている人がいた。

 

 

それがとても気になって考えてみたが、この処分はどうも言論ではなく、恫喝的な態度が主ではないか。要は高圧的で恐喝的な人間がいては政権は取れない、そういう判断ではないか。そして、立憲民主党の報告書を読んでみると、たしかにクソ面倒くさい。 

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第28回常任幹事会資料「調査報告」.pdf

 

内容は幅広く問題にアプローチしており、その点は評価ができる。しかし、読んでいると途中でどうでもよくなって来て、パワーポイント3枚に論点を纏めろと言いたくもなる。そして、もう除名でいいよって気分になった。最近、特にネットでは著名であるが、議論とは得てしてめんどくさい側が勝つ構造なのである。

 

議論する事は真理に至る道であるとソクラテスは看破した。これは歴史上に残る偉大な功績だと思うのだが、ソクラテスが喝破したものは、議論の本質ではないという点が重要なのだ。真実は言論の副作用に過ぎない。人を説得するのに真実など必要としないからだ。権力か暴力が金か、ま、何かがあればそれで十分なのである。

 

この世界は常に揺れ動いている。昨日まで犯罪だったものが誕生日を迎えれば犯罪でなくなる。それに納得できないと主張するのは構わない。たった一日で何が変わったのか。変わってないではないか。なぜ一日経過しただけで急に実名で犯罪者として報道されるようになるのか。そこに明確な何もない。

 

だが、その程度の事は太古の人類だって知っていたのである。だから、ある日を境に切り替える。それをするためにある部族の人たちは高い所から蔓を足に巻き付けて飛び降りたし、ある部族の人たちは顔に入れ墨を入れた。この世界に区切りはない。だが人間は区切りを必要とした。戴冠式を終えた女王はもう親しく口をきけないのである。

 

07/25

本多平直 意見書(PDF)

自分の主張の正しさを貫く事は議論の観点からも問題はない。しかし、今回の問題の本質はその主張ではないようと思われる。その点について彼は正論であれば人を恫喝しても構わないという思想の人間に見える。

 

もちろん彼に恫喝の意図はないであろう、彼にとってそれは白熱した議論のひとつであったろう。だが、政治家はその立場上、それに参加しうるのか、という立憲制度の根幹にも係わる問題がありはしないか。

 

政治家同士が国会の場で白熱するのは良い。それは公開されているからだ。しかし一般市民に対して非公開の場でそのような態度を取る事は許容されるか。政治家が非公開を失念しては困るのである。その態度が政治家として問題であるという点が理解できないないように思える。