防衛省、小中学生向け「白書」作成=16日からネット公開

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国防は国の基本だから義務教育にも組み込む方が望ましい。それは別に 21世紀に入ったからではなく、どのような地域であれ国家であれ、太古から行ってきた事である。

 

江戸時代の日本では各藩が教育に力を入れていた。その例は沢山ある。その教育の成果が明治維新(1868)に結実したとも言える。しかし幕府側の教育が劣っていたから負けた訳ではない。十分な教育の成果があったから江戸の街を燃えカスにせずに済んだ。

 

人材こそが国家の根幹である、これは明治政府にも踏襲された。だから教育勅語(1890)は早くに成立した。だが次第に教育は実利的な手段に変遷する。社会の安定は、群れの中での成功者と失敗者を区別し、あるシステムに適用する事が繁栄するという進化的力学を教育も後追いをする。

 

古代スパルタの敗北を見ても、国家の衰退にはそれなりの理由がある。それは数の有利が働かなくなっている事で観察される。多勢に無勢が勝利する逆転現象には理由がある。ひとつに装備/技術の劣勢、文化的習慣の欠陥欠点、士気/忠誠/機知の喪失、それを十把一絡げにすると人材の枯渇に極まる。

 

またピーク後は大概腐敗する。どれだけ慢心を諫めても難しい。それをある人は神話化と呼んだ。

 

だから子供たちを教育するなら誇りを持ちながらも神話化させない事が肝要である。また勇気の中には失敗や敗北を直視する考え方も含まれる事を教えておく必要がある。実際にそれを経験するのはもう少し後が望ましいが、少なくとも考え方を知っておく必要はある。

 

すると子供の教育の要点に掲げるものは考え方の基本構造であって、それは知識の増大とは異なる。小室直樹の言葉で言うならエッセンスである。

 

教育勅語のコアにあるものは忠と孝。これは江戸時代的価値観の近代的復権と呼んでも差し支えあるまい。幕府への忠誠を国家に置き換えたに過ぎない。恭儉きょうけん博愛はくあい學修がくしゅう啓發けいはつ德器とっき󠄁という個人的価値を公󠄁益󠄁にまで拡大する事。当然ながら最終的には、危急の大事には軍を形成する一員となる事を諭す。いざ鎌倉へは日本古来以来の美点である。

 

どのような国家も自国の軍に誇りを持つべく教育をする。如何なる汚点もそれは過去である。この大前提は譲れない。それは例えば麻薬カクテルを構成する人たちの間でも通用する価値観である。自分のコミュニティへ親愛の情を持たずして貢献は考えられないのである。

 

日本は最終的にその結果としての焼け野原と勝ち目のない敗戦を経験したから、教育と軍の間に横たわる溝は深く広い。軍に協力するのはいい。しかし、お前が無能でないと誰が保証するのか。いや人間だから失敗もする、それはいい。だが、その時にお前はどのような責任の取り方をするのか。この不信感は今も健全である。それはそうだ。あれだけの大敗をしながら先大戦の敗者たちは、その指導的役割を果たした人たちは、圧倒的に畳の上で死んでいる。

 

もちろん黙した人はいる。残りの人生を平和や復興や教育に捧げた人もいる。だが、多くの人は何食わぬ顔をして生きぬいた。憲兵としていばり散らしていた人で自死を選んだ人は寡少のはずだ。

 

だが、それは子供の教育とは関係ない。子供にそういう事を教える必要はない。では何を教えるべきか。ここではたと頭を抱えるはずである。日本にも軍隊がある事、それは世界中でそうである事を知る事は必要であろう。しかし国家を体系的に見るならば、軍の前に憲法がなければならない。憲法なくして国軍なしである。

 

よって、子供向け冊子に憲法の話が書かれている事は極めて重要でその内容は知らないので、良識的な憲法論が展開されるのか、それとも自民党的荒唐無稽な憲法論が展開されているのかは不明だ。

 

これがきちんとした教材で憲法に触れる具体例としてこれが初めての子供たちの経験になる事を願う。そうならば価値がある。すくなくとも憲法全文を義務教育で教えていない現状では極めて重要な教本になって欲しい。

 

しかし惜しむらくはこの冊子の表紙である。如何にも子供向けのほんわか絵である。冊子の中には写真も満載しているだろうが、軍というのは極めて冷徹なリアリズムの固まりでなければならない。その一端に触れるには、この表紙は看板に偽りありではあるまいか。

 

何を教えるかは難しい。だから必ず教育とはその困難に立ち向かった大人たち(子供から見て)の苦難の後でなければならない。それ以外に子供に見せるものはないと言い切っても良い。それが教育の本質ではあるまいか。