神戸の教員間いじめ 校長「認識甘かった」と謝罪

www.sankei.com

 

4教員の中には女性も含まれているそうで、明らかに言える事は、これは複数人だから起きた事で、一人ひとりであれば決して起きなかった。なぜ彼らは出会い、仲良くなり、集団化してしまったのか。

 

このような集団が故に起きた事件というのは、歴史には幾らでも転がっていて、枚挙に暇がない。有名所では山本直樹のレッドにもなった連合赤軍事件があるか。

 

いずれにしろ、人間の強さは集団の大きさによって決定する、これは群れを作る動物にとっては本能レベルに根差してた自然、野性的な振る舞いであろう。だから、集団は幾つも生まれる。特に閉鎖的な集団の中では、幾つもの子集団が生まれる。

 

さかなクンが指摘していたが、魚でも狭い空間に多くの個体を入れると、互いに攻撃しあうようになる。エヴァンゲリオンでは、ヤマアラシのジレンマとか、ATフィールドという創作を持ち込み、人の孤独と集団を主題として作品の原動力とした。

 

集団が国家になる。国家体制は何千前年も前から多くの人々が考えを尽くしてきた。幾つもの思想が生まれ、それは今も有効である。そして、最終結論が出ていないのは世界を見れば分かる。

 

強い集団に加わる事は、自分の立場を上げる最も簡単な方法である。自分自身を守るためにストックホルム症候群を起こす場合もある。いずれにしろ、集団が暴力組織に変遷するには、幾つかの条件が必要なはずで、多分に中心人物に依存する部分が大きいと思われる。そういう人間の心理については、既に研究し尽くされていて、恐らくは名前もついているだろう。

 

人々の行動は、場の空気や同調圧力によって、エスカレートしやすい。それは集団内においても同様で、競争原理が、Aの行為に対する後発のBはそれ以上の結果を目指す、そのスパイラルが人間の発展の根底でもあった。

 

だから小さな暴力が大きくなるのは自然である。それがどの程度で、飽和するか、それとも歯止めなく増長し、遂には殺人まで進むのかは、全くの偶然、運、外部要因というしかない。

 

人間は最終的には地球人であることを誇りにしてればいいと思うが、当然であるが、我々は簡単に国を上限として誇りに語る。ノーベル賞を受賞する人がいれば、日本の誇りと簡単に言う。

 

もちろん、家族や親戚、友人、同僚、などには、喜ぶ理由がある。嬉しいと思うのは当然である。だが、さて、それが誇りか?そういう人は、その友人を誇りと思うか?それは英語でゆう所の i am proud for you とは違うだろう。

 

自分のアイデンティティを赤の他人に託すな、という話がある。八木宇田アンテナが日本人の誇りと語っている人がいたのだが、あのアンテナが示すものは、日本人の一部に世界的にも優れた研究者がいるという話と、大部分の日本人は間抜けでどうしようもないという話である。どこが誇りになるのか理解できない。

 

もし違う場所で出会っていたら、この四人も犯罪者になる事はなかっただろう。何かが、彼らの闘争本能を解放した。そうしなければ、群れの中で自分たちの立場を維持できなかったのか。そういう恐怖心のようなものが背景にあったのか。何が、その恐怖心となったのかは知らない。

 

だが、たまたまそこに居た人が目を付けられターゲットとされた。対象がいる事が、彼らの団結力を強化した。それが帰属意識を明瞭にした。それが自分たちの幸福感を上昇させた、たぶん間違いない。なぜなら、そういう状態では脳内で快楽物質が放出されるから。

 

そういう意味ではこの事件に面白みのある部分はどこにもない。あくまで無意識的で、野性的で、単なる集団における脳内物質の放出に従っただけだ。それがある時から依存症的なものになっていっただけの話しと考えられる。

 

熊が街に降りてきたら射殺される、それと同様に考えれば、これが人間でなければ処分される程度のメカニズムしかない事件である。だから、逆に言えば、だれもがこの四人の中にいた可能性がある。

 

前校長に相談した教師の存在が異質であって、それでも前校長は間抜けであった。だから事件はそれからも続いた。なめられていたとして言いようがない。そして、今もなめられていたという事に気付いていないように思われる。

 

集団のトップに立つ人は、例えば、邦画のような下らない極致のような作品であれ、それを率いる監督やプロデューサーは、500人近い人を束ね、全員を一つの目標に向かって走らせなければならない。

 

はねっかえりの女優、道徳の欠片も持たないような俳優も含め、野心と金に群がる連中。何かあれば、写真を撮って、ゴシップ紙に売り渡すのに何のためらいもない人々。こういう連中を率いるのは本当にガッツがいるはずである。強靭さが欠かせない。そういう人の凄さは、そりゃ一匹狼では絶対に出来ない。つまり、相手を屈服させる能力がリーダーには必須のはずなのだ。

 

なめられたらタダじゃおかない。これは何も反社会的な集団だけの専売特許ではない。どのような組織でも同様である。エマニュエルトッドが指摘する、平等核家族、直系家族、共同体家族、絶対核家族など、家族内に生じる平等と階層の関係が、そのまま社会システム、政治体制にまえ敷衍できる点で、人間の集団というのは、あくまで幾つもの類型化が可能であり、それを決定するのは、自然であったり周囲の外的要因が理由となる。もちろん、それへの適不適があって、社会に打ち解けられない個体の発生は当たり前の現象である。

 

学校というシステムであれ、官僚であれ、大企業であれ、多くの競争原理の中で這い上がってきた人たちが上に立つ。そういう人たちは、当然だが戦い方も知っていれば、勝つ喜びも知っている。それだけの戦いを潜り抜けてきた人たちでさえ、それとは違う戦い方をされたら脆い部分がある。どんな人でも自分の知らない戦い方をされては必ずしも勝てるとは言えない。

 

ゴルゴ13だって、将棋で勝負を挑まれたら、そこいらのおじさんにも負ける。同様に、勝負の世界で生きてきた、その世界で培った勝負勘というものは、他の戦いでも役に立つ、という話はある。だが、それは逆であって、他の戦いをしている人の考え方が自分の戦いにも役に立つという事例はあっても、自分の戦い以外の場所で自分も戦える訳ではない。

 

だから、自分の知らない競争原理、闘争が発生すると簡単に陥落する。関西電力ほどの大企業が簡単に福井県高浜町の助役に翻弄される。たかが一万人程度の町である。下手をしたら、関西電力の全グループ企業、関連企業の労働者の数より少ないのである。町の予算と関西電力の売り上げを比較しても到底相手にならない。所が、簡単に言い負かされている。恐らく彼らの知らない戦い方で挑まれたからだ。

 

官僚たちは、官邸の意向に逆らえない。法律があろうが、なかろうが、言いくるめられてしまう。法律に違反している?それを言えるのは裁判所だけだよ、問題があると思うなら、裁判に持ち込みたまえ、その結審まで君が無事に退官できたらいいね、くらい言われたら、官僚は戦い方を知らない。

 

逆に、官僚たちも法律に従わなくても、官邸を従わせる方法を得た。分かりました、この議事録をすべて公開します、その一言で官邸は何も言えなくなる。では、議事録はなかったことにして報告しておきましょう。その代わり、この法案だけは何としても通してください。何か問題があれば、どこかのロッカーから見つかったとでも釈明すれば私たちは何も困りはしませんから。

 

世界中で、これまでの戦い方、自由と民主主義、平等と共産主義というイデオロギーの冷戦構造が終わった。この対立は、マルクスが仕込んだ資本経済が100年長らえる施策であった。共産主義があったからアメリカと中心とした資本主義は健全に発展した。その発展の末に冷戦は終焉した。すると資本主義は人間に牙をむいた。

 

資本主義もまた、貧しい人々から搾取する効率的なシステムに変わりつつある。敵対する敵がいなくなれば、自分たち自身を攻撃し始める、人間の免疫システムにさえ見られる一般的な行動である。

 

さて、新しい世界は、どのような戦い方を要諦しているのか、経済的搾取、は余りに悲しい結論である。それ以外の何かあるだろうか、それもまた人間という動物がもつ、野性的自然的なものに根付くと思われる。

 

そして、この集団の数の原理、数が多い方が勝つ、この本能的な原則に対して、初めて否を突き付けたのが核兵器である(その前段階として数の原理を打ち破ったのが機関銃)。どれだけ人が集まろうが、核兵器を使えば意味がない。数の原理はたった一発の核兵器で打ち崩す事ができる。

 

そういう時代に我々はいる。単純な集団心理などに関わっている余裕はないはずだ。例えこの単純な集団心理に基づいた行動しか我々は選択できないとしても。