子の甲状腺がん、疑い含め59人 福島県は被曝影響否定

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読売のクズ、毎日の落書き、朝日の欺瞞。

 

イノベーションは、女子高校生マネージャーで有名になったドラッガーの著書によれば、顧客が誰であるかを見極める事である。それが重要であり、難しい。

 

新聞社の顧客とは誰か。もちろん購読者ではない。顧客とは紙面の半分を占める広告主である。収益の割合は知らないが、テレビにとっての顧客がコマーシャル、新聞の顧客が広告主は全く同じ構図であり、視聴率にあたるものが、新聞では購読者数、発行部数である。よってニュース記事とテレビのコンテンツは全く性質を持つ。

 

紙と電波という伝達経路の違いだけであるから、インターネットの脅威も同じ土俵にあるが故なのである。勝負はどの経路に人が集まるかでまず決定する。コンテンツはその後の問題である。ラジオに勝ち目はないのである。

 

だが、インターネットの前ではラジオもテレビも新聞も同じコンテンツとして存在する。音声、映像、活字、このいずれもがインターネット上のストリームである。

 

さて、NHKの顧客に広告主はいない。しかし視聴料を徴収しているとはいえ、彼らの顧客もまた視聴者ではない。視聴料を払っているからといって顧客ではないのである。彼らの顧客はそれを律する法律であり、それを監督する官庁である。

 

だからNHKに公共放送という概念は存在しない。ただの方便に過ぎない。もちろんジャーナリズムは皆無なのである。公共放送を隠れ蓑にした欺瞞な営利団体として活動している。故に今からでも遅くない、国営放送にすべきなのである。

 

ニュースは人寄せパンダの一種である。人前で披露する以上、そこには演出も装飾も要求される。自分たちの信用が失墜しない程度の良心は残すにしても、最終的には数字の勝利である。嘘はない、騙される方が悪い。

 

だからこういうタイトルを平気で書く。

福島の子のがん、被曝との関連は結論出ず 専門家会議 

  

彼らは謂う。何も嘘は書いていません。その通り。文意に嘘はない。それ程までに記者たちは人間を軽蔑し侮蔑している。彼らにとって重要なのは話題であって真実ではない。ぞろぞろと集まってくる間抜けこそがお客様である。

 

関連に結論出ずなどあり得ない。関連は「有る」か「無い」のどちらかである。無いと思われているものが有ればニュースになるし、有ると思われているものが無ければこれもニュースである。では関連に結論出ずはニュースか。

 

科学ならそういう状況はおおいにありうる。どちらとも言えない。それだけでも論文が書ける。しかしそれは何かをしたのである。その結果としてその方法では結論を得られない事が分かった。だから論文になるのである。ニュースはそうではない。分からないものが分からないだけである。するとそのニュースの意図は何か。

 

子供へのがん検診が行われたのは疑わしいからである。疑わしいからやったにも係らず、結論が出ないのであれば、通常は有罪である。だいたいこれだけ長くやってきて結論が決定しないものが、福島の事故の数年ではっきりすると考えるのもどうかしている。分からない、だけど分からない事もまた知見である。

 

DNAの修復はそんなに弱いものでもなかろう。関連しているかも知れない、していないかも知れない。誰にも分からない。

 

ならば、関連していると考えて動く方が安全である。安全側に転がす、フェールセーフならそうする。

 

関連の結論が出ないならば、当面は黒と見做す。その方がいい。という主張がここには暗に隠れている。もちろん、これは記者たちの主張ではない。

 

そう読み取る読者が居る事を知り尽くした上で、敢えてその方向に誘導する。何故なら、その方が話題になる。安心ですと宣言するほど馬鹿らしいニュースはない。

 

マスコミは世論の拡声器である。しかし、そこに匙加減を加えて方向転換も加速も自由自在だ。それで暴走すれば、戦争も起きるし、原子力発電所は建て替える事もできない。被曝と癌の関連など科学者に任せておけばいい。

 

何かあったらと考え、他県よりも丁寧に癌検診を増やす。癌の原因は放射線だけではない。化学物質もある、大気汚染もある。煙草もあれば、食品添加物もある。ただ放射能は目には見えない。見えないけれど確実にある。地球が冷却してしまわないのは地殻にある放射性物質のおかげであると聞いたこともある。

 

放射能は見えないけれど、しかし適切に測定すればこれ程わかり易いものはない。隠しきる事は難しい。例えにインフルエンザウイルスと放射能を比較してみればいい。どれほど丁寧にしても実用的にインフルエンザウィルスを国内に持ち込むのを完全に阻止することはできない。

 

だが、放射能であれば、密輸でない限りは可能である。放射性検査すればいい。密封したくらいでは隠し切れない。少なくともガンマ線に限れば、遮蔽するには不自然な重さが必要になる。

 

測定出来る限りは、誰にも大きな嘘はつけない。その点で放射能は管理しやすい部類である。結論が出ないと書く事で人々に不安を与えようが、この記事があろうがなかろうが、何も変わらない。

 

明確に危険と言う程の問題はない。タバコの害と同程度かそれよりも低い危険性さえ指摘できなかった。今の処、そういうデータしかない。それだけの事。10年後には癌が増えるかも知れない。減るかも知れない。変わらないかも知れない。分からない。だからがん検診を丁寧にやっている。

 

なにも不思議も疑問もない。ただ人々は何か起きた時に、これは放射能のせいだと思いたい。そう感じる心がある。例えば大阪で癌になった人は、どうして私が、としか思えないはずだ。

 

それが、福島なら、ああ、これは放射能のせいだ、と思う事ができる。そこに必要なのは正しいかどうかではない。人々はそう考えるに違いない。それは良い悪いの話ではない。それが人の心性だ。

 

あの事故がなければ私は癌になどならなかった、心のどこかでそう思う事がいい事なのか、悪い事なのか、それは分からない。ただそう思う心のケアはこれから必要なはずだ。

 

その心配に付け込むような記事を新聞がまき散らしている。この記事のどこに不安と向き合う姿勢があるか。それではいけない。

 

ただ、心に寄り添って。