PKOでの「駆けつけ警護」先送り 政府、参院選後に

 

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この法案が通るまで、他国と協調して作戦を展開する事はないんだろうけど、それを先延ばしすることでほっと一息ついているのは当の自衛隊だろうか。

 

警護活動が広範囲になれば、当然、危険性も増える。戦後、陸上自衛隊で初めて戦闘で人を殺す人も出れば、初めて人に殺される人も出るだろう(病死、事故、自殺者は除く)。

 

そのような重要案件を前にしても、それよりも自分たちの選挙が大切という態度はどうも信用におけない。自衛隊の法整備よりも選挙を優先するという時点で、非常にトリューニヒトなのである。

 

政治家というのは信用ならない。軍隊を支持して、自民党を支持する人はバカではないかという気がしないでもない。

 

しかし世の中には、中立な意見をかざしながら、ある勢力にべったりな人もいるから注意が必要である。なお、これから書く事は反自民の姿勢である。

 

政治とは何であるかを考えるとその定義は実は難しい。それが短絡に明白という人は除いて、政治的行動とか、政治判断という日常茶飯事な言葉でさえ、その意味を考えると分からなくなる。

 

一体どういうことが政治的であるのか。それは果たして人間以外の動植物では見られない行動であるのか。過去の歴史においても必ず見られる行動であるのか。

 

と考えてゆく時、政治的という意味は、説明する事だと思ったりする。政治的行動とは説明できる行動という意味だ。説明できるとは、行為の正当性を多くの見知らぬ人に説明できるという意味だ。

 

故に説明できれば良い。その説明が真実であろうと、嘘であろうと構わない。勝ち組だろうが負け組だろうが関係ない。政治的関係とは説明する関係性である。

 

故に武力と政治は密接に絡み合うが、その本質は異にする。政治とはその最初から言葉なのである。

 

すると言論的行動を政治的と言い換えても良いかも知れない。しかしそれは話し合うという意味ではない。言葉にも思惑があり表現がある。思惑は言葉にされないが、言葉にされ得るものである。

 

そして言葉にされる時、表現は様々になる。詰まり、思った事を書きましょうという時、そのまま書くようでは政治家は育たないのである。

 

思ったことがあります、それを相手に伝えたい、ただし、誤解するように。思ったことがあります、それを相手に伝えたい、ただし、相手が自滅するように。思ったことがあります、それを相手に伝えたい、ただし、自分に味方するように。

 

よって、孤独では政治は起きないという事になる。必ず相手がある。一人であれ、二人であれ、多数であれ、相手がいる。そこに働きかけるのに、武力を使うでもない、資本でもない、仁義でもない。言葉でやる。

 

言葉で伝える。武力で屈服させるのも、資本で買い叩くのも、仁義に訴えるのも手段であり、政治ではない。政治はそれらをすると伝える事だ。思惑がある。自分はこう動こうと思う。

 

それを伝える事を政治的と言う。故に、思惑を見抜かなければ政治的行動は読み切れない。何かを伝えようする。今からお前を殺しに行くからな、今からお前を助けにゆくからな、今からお前を裏切るからな、そういう思惑が、様々な言葉になって表現される。

 

彼らには助けてもらった恩義があります。もちろん彼らとの軋轢が消えた訳ではありません。私はそれを決して忘れたりしません、ずっと先まで。

 

そこには利得というものが潜んでいるはずである。よって、政治的行動は、権力闘争の一部となる。利益を得る為には力が必要である。大昔の略奪から始まり、様々な手法で人間は略奪を続けてきた。富の蓄積が今日まで来た結果、言葉がより重要になってきている。

 

それが政治的行動と呼ぶべきものではあるまいか。言論の府である国会が形骸化して久しい。政治的行動とは新聞紙上で起きる事だと思われている。裏工作も、根回しも、料亭で起きる事も、すべて言葉から始まる。沈黙さえ、言葉であり、メッセージであり、政治である。

 

我々はまず言葉に注意すべきだ。その思惑は何であるか。自衛隊の人たちの命にではない。