Goodbye Ha@@iness - 宇多田ヒカル

 

名曲の定義は難しい。デジタルのお陰で、曲が好きなのか、それとも PV が気に入ったのかも分からない。ましてや再生速度さえ変えられる。好きの境界も今やあやふやだ。

 

一概に曲と言っても、歌詞もあれば、リズム(拍)もある。メロディ(律)もあれば、ハーモニー(和)もある。アレンジも含めれば、その曲が好きと言っても、本当はどこを気に入っているかは一概には言えない。曲という構成もけっこう巨大なのだ。

 

もしかしたら、好きは局所にしか存在しないのかも知れない。しかし、その一部を好きであるためには、その全体、そのすべてが必要なのだ。そういう場合もあろう。そういう構造が本質かも知れない。

 

インターネットの記事で使われる名曲という呼び方が、単なる流行とか、著名な、程度の意味で、とにかく聞いた事さえあれば何でも名曲と呼んでいるような気もする。だから、名曲と呼ぼうが呼ぶまいが、すべての人にとって人生のあるシーンに音楽が流れているもんだから、良い悪いを超えて音楽に力があると言ってもいい。それはきっと寄り添う力だと思うのだけれど、それが様々な場面にあるもんだから、もう世界は広すぎる。

 

きっと誰れも聞かれた事のない曲の中にも良い曲はあるはずだ。

見る人もなき山里の桜花ほかの散りなむのちぞ咲かまし (伊勢) 

 

いずれにしろ、宇多田ヒカルは自分にとって日常で聞こうと思う人ではない。何故だろう、と考えても、理由は知らない。

 

それでも映画で流れたり、ラジオから聞こえてくれば、耳を沿わせるように、澄まして聞いてたりする。生活の中に流れる音楽と言えるかも知れない。

 

宇多田ヒカルといえば、音楽よりも、バイリンガルの無礼さを未成年という説得力で日本に浸透させた功績が斬新だった。日本の礼儀を知らないのなら仕方ない、という感じで受け入れられてしまった。それは明らかに何かが外部から入ってきたものであって、ある意味、黒船来航ってあんな感じかなと疑似体験もさせてもらったのである。

 

ネィテブに近い(発音の)英語ができるという説得力が圧倒的な力を持った。宇多田ヒカル以降、英語の発音が決定的に日本の歌唱を分けるひとつの目安になった。

 

英語が喋れれば決して偉いわけではない。もしそれが正しいならば、アメリカの5歳児は日本の80歳の人(海軍出身を除く)よりも偉いという話になる。しかし、あちらの国の5歳児にできることが、日本人ができると急に偉いと思ってしまうのだから、なんとも語学は不思議だ。確かに、英語ができれば、世界は広がる。少なくとも、この国から出られない理由がひとつ減る(もちろん英語が話せなくとも外国に出て行った人はごまんといる)。

 

言語能力は往々にして育った環境に依存するから、それなら生まれて来た場所を呪うがいいと言う話であって、どうやら日本人は根っからの世襲好きという結論になる。

 

 

宇多田ヒカルの記事が増えたのは、4月に新曲がリリースされたからである。

 

成る程、ひとつの大きな泡がぷくっと生まれる。すると、その周辺に小さな泡がぷくぷくとたくさん出来てきて水面を覆う。トイレでよく見るあの泡の、それがいま起きているわけだ。