第41期囲碁名人戦七番勝負 - 井山裕太 vs 高尾紳路

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これは価値のある戦いであった。そして、勝敗は決した。

 

どちらも、もう一度やったら勝敗は分からないと言うだろう。一度きりの戦いの仔細は知らないし、理解できるはずもない。

 

恐らく囲碁ももうじき強い/弱いという価値基準では測れなくなる。所詮はAIに勝てない人間どもの戯言になるから。

 

ラソンの速い/遅いは確かに金になる。金メダルの価値がある。しかし、手紙を出すときに金メダリストにお願いすることはない。郵便局の方がずっと早く安く配達してくれる。

 

メロスはあの時代だから感動するのであって、現在なら携帯電話で5分もあれば終わりの話である。用事があるにしろ車で行って帰れば済む話である。

 

だからマラソンは速さに価値があるのではない。恐らく面白さに価値がある。

 

プロの価値は面白さにある。道を究めたいと思うなら、アマチュアで研究する方がよい。そういう時代が来る。

 

もちろん、面白さの再定義が必要である。従来は常人には思いつかない妙手や鬼手が面白さのひとつであった。一方で、いぶし銀と呼ばれる地味だが味のある棋士もいた。

 

その手の意味がずうっと後になって分かったり、相手の動揺が手に出たりする。それが面白くなるためには鑑賞する側にも高い理解が求められていたのである。その手の凄さが実感できるには、同じくらい高みを見渡せる高さが必要なのである。燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんやである。

 

だが、オリンピックの選手がどれだけの集中力と我々には到底理解できないほんの数ミリの、時間にして0.05秒の違いに千も万の差を感じながら、彼らにしか見えない明瞭な壁を知ることは、僕らにはできない。ただあるだろうな、と想像することはできる。

 

それがどういう成功となろうが、失敗となろうが、プレイしたものにしか分からない時間の結実がある。その凄まじさは、鑑賞するだけでは足りない。だから、鑑賞者は寄り添いたいと思うものである。その緊張を集中を弱気を。

 

つまりプロフェッショナルとは、優れた解説者が存在しなければならない。幾ら AI が強くてもその手が理解できなければ、それはただの箱である。数学者がどれだけ立派な数式を並べようが、我々には記号の羅列にしか見えない。

 

「はて、3人目は誰ですか?」と聞き返したエディントン侯ではないが、理解できなくとも騒ぐことはできる。だがそれでは面白さが足りないはずだ。どんな優れた論文を書こうが、理解する人間がいなければ、ただの紙である。

 

理解するものがいる。このことの価値は人間にとっては大きいように思える。

 

そして、棋士とは相手に打ち勝つことでしか相手を理解できない人種である。7冠という孤独に対して、それを理解する人物がやっと日本に出現した。そういう戦いであったろうと思うのである。

 

この勝利の価値はたぶん、我々には本当の所は分からない。もしかしたら対戦者同士でさえ分かっていないだろう。だが、それでも素晴らしい。この勝利も敗北も同じくらいに素晴らしい。プロフェッショナルとは敗北で金が取れる人の事だからである。