移民が支えたフランス代表 エムバペ父はカメルーン出身

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仏南東部ブザンソンで、アルプス山脈を越えて入国しようとする移民・難民を支援するミシェル・ルソーさん(65)は「移民・難民はサハラ砂漠を越え、地中海を渡って仏政府の庇護(ひご)を求めてやってくるのに、仏警察は国境で捕まえ、難民申請の権利の有無も確認せずに追い返している。W杯仏代表は移民が支えるが、国境では逆のことが起きている」と訴える。(パリ=疋田多揚) 

 

スポーツ観戦の醍醐味は、どちらにも勝ってほしい、どちらにも負けないでほしい。この接戦が永遠に続けばいい、という境地にあると思っている。

 

申し訳ないことに、フランスVSクロアチアではフランスが強そうに見えたのでクロアチアを贔屓目に見ていた。それでもフランスの切り裂くような三点目、四点目には声も出ず(実際は出たのだが)、これは相手の意志を打ち砕いたなと感じた。

 

それでもマンジュキッチのロシアWC最期となる一点には驚愕したし、残り時間を見る限り、一点あれば状況は分からないと楽しめた。攻めるクロアチア、一瞬のスキを逃さないフランス。表彰式のモドリッチやムバッペを見ていると終わったなぁと深い喪失感に浸った。

 

イギリス代表も黒人が多かった。彼らのルーツは知らないが、ジョージ・ジェントリーの60年代を舞台とするドラマに Eamonn Walker(Chicago fire のボーデン役)が出ていたから、その頃には普通だったのだろう。

 

google によれば、イギリスは 1833 奴隷禁止前に来た人たち、WW2戦後の移民、冷戦後の難民の3グループがある。フランスではアフリカの元植民地をルーツとする人が多いそうだ。あと難民はやはり多いそうだ。

 

シャーロック・ホームズを読んでいた限り、19世紀にはあまりイメージがない。と思って調べたら黄色い顔があった。あらすじで思い出したが、これはそれでもアメリカでの出来事を話題にしている。三破風館にも端役として登場しているが、まだ一般的ではなさそう、虐げられた底辺の少数の人々という感じだろうか。

 

WW2のアメリカには黒人だけの部隊があった。日系人442部隊の話も知っている。硫黄島の戦いには黒人兵士も参加しておりそれは混在部隊だったらしい。eastwood のFlags of Our Fathersにもわずかながらそういう描写がきちんとあるそうだ。

 

ナチスとの戦闘で捕虜になった兵士の中には黒人もいたことがドイツ兵の手紙などに残っている。だから兵隊として戦地にも赴いていた人がいたのも間違いなさそうだ。

 

サッカーのようなスポーツでは個人資質が最も顕著である。何百万人もの頂点に立つ人なので、まず同じ人種でもその差は天地ほどある。

 

次に、その個人資質の中に人種差が含まれるかというと、これは当然であろう。また現代社会では人種差はそのままコミュニティの違い(地域や格差)を生むので、例えば、人種が違えば教育や育成が変わって不思議はない。

 

スポーツの適正は早熟であるほど有利であるから、それは人種差だけではなく、年度初めの子供の方が一年分有利という話もある。

 

こうして、余りに複雑な要素が絡んでいるので、総合力としての実力を人種だけを原因とする考えは無意味な気がする。これは手っ取り早く分かった気がしたい人向けの論理だろう。

 

フランス代表の黒人やその他の民族の比率が、フランス人口の比と異なっているとしても人種に深い意味合いを持つのは正しいとは言えそうにない。サッカーがうまい人は黒人だけではない。ブラジルにもポルトガルにもスペインにもクロアチアにも上手い人はたくさんいる。世界76億人から選抜された数百人である。そこに現れる目立った特徴に偏りがあったとしても、短絡に考えるのは危険だ。

 

いずれにしろフランスでは黒人の大臣を猿呼ばわりするヘイトスピーチが2013年にあり、レイシズムアメリカだけの問題ではないと知った。

 

今週だけはフランスの黒人も面接試験は有利だよと笑えない皮肉を持ち出した人もいる。サッカーを離れれば、なんという現実が待っていることか。

 

クロアチアの歴史を紐解けばボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、民族浄化という暗い歴史を有している。愚挙はナチスで終わりではなかったのである。

 

バルカン半島という火薬庫と呼ばれる地域。ヨーロッパの人でも正しく理解できているかどうか。当人たちだってなぜ敵対するのか。お互いが違っているから、それ以上の理由を持っているとは思えない。

 

どのような国にも歴史には目を背けたくなるような愚挙がある。それを正当化しようと、それを非難しようと余り意味はない。

 

大切なことは、そういう事をワールドカップを通じて、知りたくもない事であっても知りつつ、その時にはピッチを走り回っているあの選手、この選手のことを思い返す。それはただ文献で知る知識よりもずっと意味がある。

 

自分の好きな選手、汚いプレーで献身的な憎たらしい選手であっても、あの人達のひとつひとつのプレーが僕のふてくされたイメージを上書きしてゆく。そういう歴史を乗り越える力となって僕たちを押してくれる。僕はこの選手たちを信じると。その浄化は、まるでナウシカでも読んでいるようだ。

 

ならば、ワールドカップで聞こえてくる応援は祈りに違いないと思わないでもない。どうか、その祈りから、社会的な問題を解決する道すじを見つけて欲しい。人の善意に頼らなくても済む道すじを。