押井守 - キャラクターの構造

構造というのは、建築的なイメージで言っているのですが、何が何を支えているのか、ということ。キャラクターというのは単独では成立しない。キャラクターっていうのは正確に言えば三角形で成立するもの。それを僕は構造と呼んでいる。概念としてはわかりづらいかもしれないですが、実践的にものを考えていく上では必要なこと

要約:キャラクターの関係性は、まず静的にがっちりと組まれていて、物語がそれを揺さぶる、キャラクターという家を物語という台風が襲う、みたいな感じ。

 

監督をやっていても構造を持っている人はほとんどいない。私に言わせれば、宮さんは構造がない典型。宮さんの作品はいつも行き当たりばったりで、願望だけで作られている。でも願望やあこがれ、ロマンチックな要素、思い入れを排除したところに出現するのが、いわゆる構造というもの。これは語り出すと本を1冊書けるくらいの内容になるんだけどね… 

要約:宮崎駿流動性の理論で作品を作っている。建築物ではなく、大河の流れみたいなもの。障害物に当たった時に物語が動く、みたいな。

 

 宮崎駿の作品に構造がないと言うのは、たぶん嘘で、彼の作品にも構造はあると思う。ただ、それを水の流れのように変幻にするから、最初の構造は容易く消えてしまう。構造が常に運動によって変化する動的なものと言えそうだ。それは構造というよりも法則とよぶべきか。

 

一方で、押井守の作品には構造的なものがある。その枠組みが魅力のひとつだと言う。それが故に、作品としての爆発的な(出鱈目さも含む)面白みは、最初の構造に全部託されているような所がある。つまり彼の世界観が決定的な役割を担う。

 

構造からの解放を潔しとしない。例えば、そこで崖の上から飛び降りれば感動するじゃんという展開を明確に拒絶する。そうではない。そんな感動ならいらない。それが彼の制約になっている。ビューティフルドリーマーが現実という世界の中にある夢という世界という入れ子構造になっていたのもそういう次第なのだろう。

 

崖の上から飛び出すのはもうあたる一人で十分だ。おれは崖の上に留まるキャラクターを描きたいのだ、そこでしか存在しえない何か人間らしさみたいなものを。

 

そういう主張があるのかどうかは知らないが、押井守の作品には、それ故に詰まらない作品も多い。その面白さを味わうにはとても難しい場所で立ち止まっているし、実は突き抜けていない気もする。

 

この人の最高傑作って何かな?少なくとも、次に作る作品です、と断言できるファンではない。