米アカデミー賞の選考対象作品に『鬼滅の刃』『アーヤと魔女』『朝が来る』など

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遅ればせながら全巻を読んだ。読んでみて無限列車の面白さも理解できた。というか、煉獄杏寿郎というキャラクターが物語の通奏低音になっているという感慨を強く持った。

 

恐らくどのキャラクターよりも長寿であろうと確信している。この人の存在が作品をずうっと遠くまで連れて行った。ちょうどヤマトが第一話の冥王星沖宙戦がその後の全てを決したかのように、キルヒアイスの死がヤンの対抗にリアリティを与えたが如く、そういえばキリストだってそうだ。その死がもっとも遠くまで、長く作品を動かす駆動力になった。

 

どのような物語もトントントンと動いてはいつかは停止する。それは人間という摩擦力の中を動く慣性のようなものだから、新しい読者がそれを語り継がない限りいつかはそうなる。紡ぐとはそういう人間の行動の結果であって、今世までギルガメシュ叙事詩が残っているのはその一例で、その作品が時間を消し去り、時代に思いを馳せさせるジャンプ台になる。

 

我々は科学技術の先端と言う時代に居る。だから、そういう時代から見れば、過去の根拠のない偏見や誤解に気付いてしまう。どうしても許せないものまであると感じる。如何にヨーロッパが世界の先端を走ったとはいえ、その歴史を読む者は、その半分に驚嘆し、残りの半分には唾棄せずにはいられないはずである。

 

だが、アジア人だからと言って安心してはいけない。アジアの歴史だって52%に驚嘆し48%に唾棄するようなものである。大きくは変わらない。以下、アフリカ、中東、南米、略略略、だいたい同じである。

 

しかしケプラーという人の何十年にも渡る計算の苦労が今ではコンピュータを使って数秒で求められ、同じ結論ならちょっとやる気になった高校生でも導ける。始めて細胞を見たフックの業績など、小学生でも味わえる。遺伝を数式で表現したメンデルの、豆の数を数える苦労など知らなくても、簡単な図式で理解できる。

 

我々の時代から過去を見れば、その苦労は既に消え去り、粉々になった砂が道端に残っているだけである。広大な砂丘を見て、過去に如何なる巨岩があったかを知るには、我々には地学の学習が必要であるし、水と風と太陽が、どれだけの時間をかけて、エベレストの高さを削ってきたか、火星のオリンポス山に標高で負ける屈辱を味わっている理由をそうやって知るのである。

 

我々には過去を切り裂く力がある。だから過去の間違いを訂正するという上段の視点で現在を評価する事も可能なのである。様々な許されない歴史を蓄積した結果が今という時代である。その残ったものは無惨の細胞のようなものである。そういう視点でアメリカを見れば、それを討とうとする人々のポリティカルコレクトであり、過去をそうやって消し去られてたまるかというトランプ支持者の気持ちも、清算したい欲望も、このままで未来が来るものかと感じる感性も否定する気にはならない。

 

どれほど新しくなっても新しい偏見を生み出すだけである、という視点が必要なはずで、そもそも理想形となる人間像は、あらゆる偏見を持たぬ存在であるか、という疑義は重要だろう。

 

民主主義がそうであるように人間には完成形がない。この絶対的仮定が今の時代を支えなければならない。我々に必要なのは現在という立場から過去を評価するのではなく、常に変わっていけるという自覚だけではないか。

 

船の先端が波を切る。波が生まれた時点で、それは既に過去である。航跡となった過去を眺める。波の無い場所は未来であるなら、現在などこの世界には存在しえないではないか。数学の点と同じ仮想だ。

 

だが、力を持つ者は往々にして万能感の前に屈するものである。自分の存在を肯定し、他を卑下する視点が自分のアイデンティティを支える。例えば、歴史家などはその典型で、この時代にこのような行動はあり得ないと雀が語る。歴史上の鴻鵠など見た事もないのに、その想像力の欠乏に絶望さえしやしない。

 

絶望をしない事を鬼と定義するなら、しかし実際の鬼は、なんと心の弱い連中だろう。彼らがもう少し自分の弱さを見つめていれば、フロイトのように自力で心理学を開拓したならば、決して鬼滅如きに滅ぼされはしなかったろう。全員が、優しさだの思いやりの前に屈してゆく。なんという弱さだ。お前の絶望とはその程度のものだったのか。お前の復讐心はその程度で浄化できるものだったのか。

 

力を持つ者故に、見えていなかったもの、封じ込んでいたものに、力を失う事で気付く、そんな物語である。そして、そのようなものに引っ張られる弱さ、社会的弱者であったり、虐げられた社会への復讐、悲しみを乗り越えるための源泉としての力、暴力、これは、何も鬼たちだけの物語ではないはずだ。実際、作中でも多くの悪人が同様に鬼によって殺されている。

 

視点を変えればさんざん時代劇でやってきた事である、悪代官を討つなど珍しい構成ではない。人を食べなければ生きて行けないという設定で驚愕したのはレベルEであったが、鬼なら手天童子を真っ先に思い出す。

 

しかし他のどの作品にも、煉獄さんは居なかったよな、が最大の気付きと思う訳である。この作品の力強さを象徴するこれは事件なのである。

 

だれもが復讐を口にする、今ならコロナパンデミックである。コロナウイルスを悪役にする程安易な事はない。これだけの感染力が人間の遺伝子に水平伝播を引き起こさないと言えるか、その程度の想像力くらいはある。

 

復讐から如何に人は逃れたか、それを語るにはまだ物語は尽きない。キリストの時代から、その前から人々はずうっとその事を考えてきた。悪人には、きちんと罰を与えよ。今の時代では、人道的という名目で死刑にするよりも生かしたまま社会的に苦しめる方法はないか、という地点まで来たのである。裏切ったものは許さないと毒殺に走るロシア政府の情緒の方が丸でおとぎ話のように素朴に見えるくらいだ。

 

あれだけの事件を起こした鬼たちが鬼滅隊だけでカバーしきれたとは思えない。すると殺人事件を捜査する間に鬼に辿り着いた警察だの、軍艦に乗り込んだ鬼と対峙する陸海軍士官だの、自分の弱さに悩む鬼の話だのスピンオフ作品は枚挙に暇がないはずで、誰かが語っていたが、江戸時代のエピソードだって存在する。すると修羅の刻とのクロスオーバーエピソードだって夢ではない。

 

つまり、この原典から派生する物語の数は予想以上に多いだろうという事だし、生き残った鬼の物語、火の鳥のように未来だって描けるはずである。

 

プラットフォームとしてこの作品がどこまでの拡がりを見せるか、ガンダムのように大成するのか、それはこれからに罹っている。それはこの作品を読んだ子供たちが大人になる頃に結実するだろう。そして、未来のどの作品も、煉獄杏寿郎という撒かれた種が死んだから実ったのである。この事実を私は疑わない。