「みじめなのが嫌です」悔し泣く利助に先生が説いた言葉とは?/松かげに憩う

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マンガにする時はカッコよくだが、吉田松陰がこう変わるとは思わなかった。随分とイメージの違う松陰であるが、自分の好みと違うくらいで面白さが損なうなどあり得ない。新しい松陰像と出会えるのは嬉しい事だ。

 

もちろん、どれだけ広大なマンガの世界であれ、幾つかのパターンというものはある訳で、マッドサイエンティストと言えども、類型を見れば指の数で足りるのである。どの種族の指の数かは知らないが。

 

吉田松陰と言えば「狂」の一字である点で、この作品には非常に共感する。ここからどういう場所を目指すのかが作者の力量で、明治維新大河ドラマにも頻繁に採用される時代だけあって、その中核をなす吉田松陰が面白くない訳ではない。物語の最初の方で去るという点では、煉獄さんと似たようなものである。

 

松陰なる人物はとても静かな感じがする。狂の一文字もとても深い所に押し込んで、静かに燃えあがらせて活力に変えているような所があって、その突飛な行動は決してマンガ向きではない。実際、松陰の多くの行動が失敗である。

 

黒船に乗り込むも断られ、余計な事をしゃべったので死罪になった。仮に維新を生き残ったとしても新しい時代ではお荷物になった気がする。だが狂というものが必要であるという慧眼は少なくとも長州を動か続けたのであるし、江戸幕府は彼の首を切った時に滅びる事が決定したようなものである。

 

彼の攘夷という思想を引きついた弟子は誰一人としていなかったが、明治という時代に世界と対等となろうとする若者たちの心に種をまいた、その一人として松陰の意義が失われる事はないだろう。

 

だが、この時代を駆け巡った数多の人々の中で、では誰が面白いと思うかと問えば、それは伊藤公でもなく木戸公でもなく、西郷でも大久保でも小松でもなく、海舟でも坂本でも高杉でもなく、横井でも大村でも井上でもなく、ただ山県有朋あるのみだ。

 

この地味に姑息そうに見えるが権謀に長けた好好爺のの何が面白いのか。ただ一点である。山県存命の時期は陸軍はまともであった。この一点に尽きる。海軍の伝統がどうかは知らない。阿川弘之が書いたような陸軍だけが悪いというのもそういう側面があるのは事実としても彼は海軍出身であるし、短絡でもあるし、理性の徒は陸軍にも海軍にもどちらにもいた。等しくそのどちらともが中枢から遠ざけられた。

 

日本が戦争へと向かう切っ掛けには幾つもの Point of No Retuen がある。そのいずれも萌芽は明治維新には観測されるのである。だが、明治は良く統制されていて昭和にはそれが破綻した。その違いは何か、

 

元老たちの存在を理由に挙げる事もできるだろうし、20世紀以降の世界の変革が原因かも知れぬ、技術革新も理由になろう。本格的な重工業の発展、社会主義国の台頭、資本主義の発達も外せない。70年もの長い年月を、ただの一度も明治憲法を修正しなかった当時の日本民族にも注目しない訳にはいかないはずである。

 

今の我々が明治という時代をよく知るのに今も司馬遼太郎の作品は欠かせない。もし彼が書かずにいたならば、我々は明治をどのような色で見ていたであろう。この世界に広く行き渡ったイメージの色があるから、幾つもの議論も可能なのだし、ドラマも作成されるのである。

 

そこに違う色を加えたり、真っ向から反論してみたりする。しかし、今の時代に、その後に続く大正時代を舞台とする物語に惹かれたり、室町に焦点が当たる事の意味は非常に大きいはずで、そうでなければ歴史が面白いはずがない。

 

室町と大正というドラマになり難かった時代がある。だから今になって注目されているというよりは、動よりも静の中に多くの作家たちが今丹念に描こうとする何か魅力があって、この巨大な流転をどうして見逃す事ができようか。

 

今、魅かれるものは、静かに力を貯めている人々の物語ではないか。それが今の自分たちに重なって見えるのではないか。もうじき、時代が動く、今は、そのための準備期間、そういう予感があるのではないだろうか。