春風亭昇太 - 六代目笑点棟梁

歌丸さんの引退と、六代目の初回だけは見た。

 

思えば、笑点は、本当に誰が見てもおかしみを感じられる番組だと思う。謂わば、日本のお笑いのど真ん中、王道にいる。

 

全てのお笑い番組は、笑点を基準とした違う何かである。

 

そう言えそうである。話題の方向性、毒気の強さ、ナンセンスさ。それぞれが特出しているにしろ、日本のお笑いの萌芽はすべて笑点の中にある。後はそれをどう加工したかという応用問題である。

 

そう考えれば、あの生ぬるさの正体が見えてくる気がする。あれだけの、雰囲気を作りあげるために、演者たちがどれほど人生を賭して毒気を薄めていったか。

 

あの人たちだって、舞台を降りれば、強烈な個性と、辛辣さと、強い意志をもつ独立独歩の個人事業主である。沸騰した落語への思いも、若い時から培ってきた長い勉強の糧も、舞台の上ではすっぱりと落とした体でいる。

 

その境地が笑点の恐ろしさか。あの舞台の上で作り上げているものは、決してなまくらなお笑いではないように思える。

 

だから、僕はこの番組を見なくてもいい。今も毎週日曜日に続いていればそれで十分である。今は見なくても済ませられる視聴者の一人である。笑点は見なくても、そこから派生した他の番組を見ているから。

 

久しぶりに見ると、楽太郎の司会などあり得ぬと得心した。笑点の一番バッターは円楽じゃないか。あの人がお題の基準点を提示する。

 

それは社会的風刺もそうだし、演者どうしの人間関係や腹黒さなども、どれもこれもそうだ。そのどれもこれもが、いい塩梅で薄められた毒気と温度になっている、その凄さ。これが芸か。

 

笑点の基準点を作れる代わりなど、どこにもいない。はっきりとした円楽という基準点があるから、他の人は自由に遊ぶ事ができる、互いの違いを強調できる。ひとりふたりこけたり、舞台が荒れたり、発散しても、彼が居るからまた基準点に戻すことができる。

 

時に自ら、悪ふざけできるのも、他への信頼関係があるからだろう。自分を止めてくれる誰かがいるから、自由を謳歌する、自分が重しとなるから自由に泳がす、そういう阿吽の協調性で舞台が進んでゆく。

 

ここにあるのは、すごい構造と思う。そして、この構造の上で昇太の人の良さ(あの人だって、笑点の舞台を降りれば、芸の鬼のような顔をした人に違いない)が全体の雰囲気を作る。だから司会が良く似合っていた。

 

マ・クベがあと10年は戦えると言った数か月にジオンは講和した。100年は持つと大臣が宣言した年金は10年もせずに破綻まっしぐらにある。

 

だが、笑点は間違いあるまい。あと100年とは言わないが、昇太が司会を続け、円楽が健在な間、笑点の面白さは揺るがない。