「人類史上1番可愛いほろ酔い」 石原さとみ、新年一発目のくしゃくしゃ笑顔が幸せそう

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年末年始のテレビ所感。

 

石原さとみが結婚を期に、年末年始はこんな所で?とバラエティで良く見た。これは一種の戦略変更だろう。彼女はアンナチュラルを代表として幾つかの傑作を生み出したので、それはそれで満足だろう。

 

しかし、明らかに結婚の報告そのものが戦術の変化、練りに練りあげての転換で予測外のパンデミックの中でこれを出した。この戦術の結末は如何。

 

彼女の可愛さは、ひとりの時の可愛さが主柱にあって、人と接している時は少しツンな感じがある。このギャップ感を基本としつつも、今後は少し違うイメージを模索するはずで、それを探すためにバラティにも登場したのだと考える。

 

2020年は、これまで考えられなかった人がテレビに出ていて吃驚した。これ程、お金が不足しているのかと訝らざるをえない。歌手や俳優が宣伝のためにバラエティを回る。逆言えば、バラエティしか宣伝ができる場所がない。宣伝でなくても出ていたりもする。という事は、ところてん式に押し出された中堅所が沢山いる訳で、知らぬ間に消えた中間層の残骸もまた沢山あるだろう。

 

特に2020年は世代交代の年であった。吉岡里穂や新木優子などの台頭が本格化して、はっきりとCMの中心が変わりつつある。これに続く世代が一斉に芽吹いた訳で、彼女たちが下からの圧力を意識していないはずがない。

 

新垣結衣でさえ、もう年齢からくるイメージの変化には対応しきれていないように見える。年始のにげ恥もこの辺りが限界か、明らかに年齢を意識した内容も含めないと説得力が生まれない。そしてその説得力を彼女のか細さは支えられるか。

 

彼女の持ち味は、結局、変わっていない。という事は、役の方が変わらない限り、彼女の配役は先細りになるという事である。ぴったりの配役があればまだ行けるという訳で、彼女には有力なプロデューサーが必要なはずで、使徒であるとか、天使的なものなら演じられるだろうか。例えば、ワンダーウーマンが彼女に演じられるか。イメージで言えば『大家さんと僕』の大家さんならいけそうな気がする。

 

その点で芸人には何故か社会保障的につながりが強固である。今では芸人を呼んでバラエティが成立する形式が主軸である。クイズ!脳ベルSHOWなんかは明らかに功労者の方々への恩返し的な位置づけである。

 

バラエティはテレビの主要コンテンツであり、そこには芸人の瞬発力と普段から練りに練ったアイデアのハイブリッドが披露される場所として存在している。

 

テレビは結局は舞台に戻るしかないのか。結局、面白いのは舞台である、という感じに極まるようだ。それを如何にテレビ的にアレンジするかがスタッフの腕の見せ所だ。如何にテレビは生ものであるか、これが重要である。今でもニュースがテレビの主要コンテンツであるのは、生ものであるからだろう。

 

年始の番組で記憶に残ったのは、おもしろ荘を別にすれば、蛙亭とアルコアンドピースだった。このふたりの印象だけが残っている。

 

特にアルコアンドピースは、酒井が実は賢いという展開になるのが面白く、現実の当人がどうかは知らないが、漫才では、賢い平子と馬鹿な酒井という構図から出発して、実は、平子が馬鹿で酒井が賢いという構図に転換するが楽しくて、サバンナに虎はいねえし、がお気に入り。

 

パンデミック下での娯楽は2021年も続く。台頭してきた者たちと旧世代の入れ替わりが確定する。芸人だけがそれを第七世代というキーワードを持ち込んで面白がれるフレームが提供された。これで生き残れた旧世代も多い。つまり世代交代は社会が抱える深刻なテーマとして通奏低音のように流れていて、これが意識下されようとしている意味になる。ついでに言えば第七世代で本気で面白いのは女性たちで、それが最大の特徴だと思ってるし、その対決も起きればいいなと勝手に楽しみにしていたりする。

 

マルクス兄弟キートンの映画がひっそり深夜に流れているのが本当の正月らしいなと思ったり、年明けには漫才ばかりが続いていいなと思ったりする。

 

ある芸人が、周りに信頼できる人がいる時はちょっと暴走しても止めてくれる人がいるからと安心してアクセル開けている状況が楽しい。それを見るのが本当の芸事だと思ったりもする。阿吽の呼吸が芸の本質ではないか。ならば一人では芸は完結しないという意味になる。

 

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